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by tsukushi--juku
土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

ありがとう土筆塾
             ありがとう土筆塾
                             6年 N・M
 私は、3年間習っていた土筆塾を辞めることになった。理由は、中学生になるからだ。この3年間、土筆塾ではいろいろなことがあった。一つ目は、4年生の時に塾の時間を間違えて、1時間も前に着いてしまったこと。二つ目はノートを忘れたり、筆箱(ペンケース)を忘れてしまったりしたことなどだ。
 塾に行きたくないと思ったことは一回もない。なぜなら、先生の教え方が上手で、わからないことがあると、すぐ教えてくれることと、先生の笑顔が見られるからだ。だからとても楽しかった。
 塾の勉強が終わり、少し時間が空くと、先生と楽しいゲームをした。それは「ぼうずめくり」とか「UNO」とか、「回りしょうぎ」などだ。「回りしょうぎ」は今のところ私の14勝11敗で、私が勝っているが、やめてしまうともう戦うことはできない。
 「卓球」をしたこともあった。卓球台を出さないで塾で使っている机を並べてやった。先生は卓球のコーチをしているのですごく卓球が上手だ。時々球がいきなり曲がったりすることもあるので怖いほどです。
 私はこのようにして3年間通いました。すごくお世話になったので、ずっとずっと忘れません。これからも土筆塾を続けて行ってください。
 先生のこと、大好きです。

 *Mさんの家は遠い。自転車で来たり、バスできたり、時には母親の車できたりしていた。小学生の時間帯はそれほど遅くないから通塾に心配することもなかった。中学生になると部活の関係などで、塾の時間帯は遅くなる。もちろん帰りは真っ暗だ。
 そんなこともあって塾をやめることになったのだろう。中学になったら、部活は「バレー部」に入るそうだ。もうぼくよりもはるかに背が高くなっているから、バレー部向きだろう。3年間よく通ってくれた。塾には百花の足跡はいっぱいある。また困ったことがあったらいつでもおいで。
 親の意向での退塾と違って、こうした退塾は実に気持ちがいい。

 
# by tsukushi--juku | 2016-03-09 22:27
残念なことです
                 残念なことです

 土筆通信にも書いたように新年年明け、作文を受講していたSくんが退塾した。ご両親の政治的見解、立場が私と違うこと、つまり土筆塾が発信する政治的問題での立場と異なること、また、子どもに政治的影響を受けさせたくないと言うのが理由のようだった。
 今年に入って佐々木友子さんの発案で、土筆通信に掲載された子どもたちの作文を中心に、本を出版しようと言うことになった。S君は約2年間土筆塾の作文を受講し、沢山の作文を書き、土筆通信に掲載してきたので、ぜひ採用したいと思ってご両親あてに、次のようなお願いの手紙を書いた。
 
 まだ寒い日が続きます。インフルエンザが流行っているようですが、皆さんお元気ですか。
 さて今年に入って、64歳の塾生、佐々木友子さんの発案で、土筆通信に掲載した子どもたちの作文を中心に本を出版(自主出版)しようと言うことになりました。佐々木さんのエッセーと僕のエッセー他、若干の政治的発信も加えた本と言うことになります。土筆通信に掲載した作文と言うことになれば当然、S君の作文も含むことになりますがご了承いただけますか。
 2年間弱の土筆塾生でしたが、その間のS君の記録は土筆通信の中に多くあり、本の中にもとどめたいと思っています。ご家族で御相談の上、お返事いただけたら嬉しいです。もしご了承いただけないようであれば、残念ですがS君の作文は掲載せず出版ということになります。お返事をお待ちしています。
 まだ仮題ですが本の構想を同封しておきます。

   2016年2月24日        土筆塾  土屋春雄

  4日後、お返事をいただいた。

 2月24日付のお手紙にてご依頼のありました、息子の作文を出版物へ掲載するかどうかの確認の件に付いてですが、先日、土筆塾退塾の際にお話しさせていただいた通り、実名だけでなくイニシャルなどのどのような形であっても、掲載をお断りさせていただきます。せっかくの出版企画にもかかわらず、ご意向に沿えない返事となることをなにとぞお許しください。どうぞよろしくお願いします。

 というものであった。残念なことだがご両親の意向に沿わざるをえない。
 ただ、少し私見を言わせていただくことをお許し願いたい。

S君が土筆塾の作文を受講するようになったのは26年4月10日。入塾に当たっての塾への希望欄には「「昆虫、鳥が大好きでよく知っています。塾では自分の意思や意見を作文で表現できるようになってほしいと思っています」とあった。入塾以来、S君は、好きな昆虫や鳥のことはもちろん、塾での遊び〈えの実鉄砲、ベーゴマ、パチンコ作りなど)や土筆塾の年中行事である「あてのない遠足」、秋の「ムーミンの家」への遠足を初めたくさんの経験をし、沢山の作文を書いた。昆虫・野鳥に関する作文では土筆通信読者にも評価され、励ましを受けながらたくさん書いた。私も彼の作文を評価し、可能な限り援助し励ましても来た。
今回いただいたお手紙では、こうした土筆塾で書き続けて、土筆通信に掲載してきた彼の作文はすべて「ボツ」になり、さらには土筆塾そのものと関わりがすべて、消し去られてしまったということにならないだろうか?
土筆塾38年の歴史の中で、こうした断絶は初めてであり、それだけに残念でならない。
 人がどのような思想をもち、どのような政治的見解を持とうとそれは自由であり、否定されることではない。またどのような教育観、子育て観を持とうと、相互に批判しあうと言うことはあっても、干渉される筋合いのものでもない。ただ4年生ともなれば、どこで学びたいのか、自分の作文が本に採用されることを望むか望まないか、それなりの判断はできるし、希望もあるだろう。S君は新年の私への年賀状で、「今年もよろしくお願いします」と書いている。親が親の政治的信条・立場で、決めてしまうことが子どもにとって良いことと言えるだろうか。
 S君が土筆塾で書き続け、土筆通信に掲載した作文は、土筆塾の作文教育の中で生み出されたものであり、他の、どこにも転用することはできないものだ。そうなれば、陽を見ることがないままに終わってしまうことにもなる。S君が一生懸命書き続けた優れた作文であっただけに、残念でならない。
 
# by tsukushi--juku | 2016-03-08 09:08
26年前の卒業生
             26年前の卒業生が来てくれた

 土筆通信はずっと送っているが来てくれたのは20年ぶりになるだろうか。41歳になると言う。20代前半で自動車教習所の指導員になり、現在は同教習所の教官。実技を含めて全般を教える。
 彼が塾生だったころとは、塾の周辺は全く変わってしまったが教室の雰囲気は変わっていない。彼は教室中を見まわしながらしきりに懐かしがった。塾で学んだことでは作文、文章教室が一番心に残っているし役立っていると彼は言う。彼の在塾していた時が塾生は一番多かった。この学年は5中、清瀬中、新座6中と学校もいくつかにまたがっていたが26名もいて、2つのクラスに分けてはいたがそれでも教室はいっぱいだった。このクラスの子どもたちは、土筆通信にも、私の本にも何回も登場した子どもたちで、塾とのつながりも最も多い。何せ、小学3・4年生から中3まで過ごした子が最も多かったからだ。中でも訪ねて来てくれたY君の想い出は多い。それこそ本が1冊書けるほどある。拙著の中からさわりの部分をいくつか紹介しよう。

 Y君(拙著の中では本名で登場する)との愉快な出会い
 
 「…Y君との出会いは実に愉快だ。彼の遊び仲間だったS君をはじめ何人かの子ども達9が3年生の時から塾に入っていて、この子どもたちが家の近くの空き地に古材を使って基地を作ったという。日曜日のある日、わらしはその基地を見学に出かけた。その折、Y君に出会ったのだ。Y君はその時のことを作文に書いている。
 「…変なおじさんが、ぼくたちの基地に来た.みんなが、先生と呼んでいる。えっ?このおじさんが先生か?」
この出会いがきっかけだった。間もなく彼は土筆塾に入ってきた。と言っても、彼の言葉を借りれば勉強がしたかったわけではないらしい。「おじさんが気に行った」誌、何よりもS君達から聞く塾での遊びが魅力的だったようだ。初めの頃は授業をよくサボった。(中略)このY君が変わり始めたのは5年生になったころだ。新年の最初の作文で、彼はこう書いた。
 今年こそ/土筆塾を一度も休まないぞ/今年こそ人にしんらいされる人間になるぞ/僕の心はそれだけでいっぱいです。(『学び創り遊ぶ』より)

 「Y君は中学三年の二学期、まわりが受験一色になり、子どもと親、教師の三者面談が行われ、受験する学校が振り分けられる頃、一時少し荒れた。三者面談でどんなことがあったか彼は語らなかったが、私はおよそ察しがついた。ある日、彼は私の授業の折、授業に全く集中せずおしゃべりを繰り返し、座っていた席の後ろの羽目板をわざとらしくたたいた。授業妨害ともとれる行為だった。私は本気で怒鳴りつけた。初めてのことだった。
 「学校で何があったかは知らない。だが皆に迷惑をかけるようなことはするな。きみとは長い付き合いだ。おれがどんなことを許さない人間か分かっているだろう。よくないことは良くないのだ。いうことが聞けないと言うなら外へ出ろ!」
 教室はシーンとなった。彼は黙って席を立って外へ出て行った。私は彼が決して土筆塾から離れて行かないと言う自信があった。それだけの関係をつくってきたという自信だ。だから気にはなったがそのまま授業を続けた。授業が終わるとY君は黙って教室に入ってきた。外で待っていたようだ。彼は「ごめんなさい」と言った。私は嬉しかった。
 彼を怒鳴りつけたのは後にも先にもこの一回だけだった。私はそのまま彼を受け入れた。
 
 土筆通信が300号を迎えた時だった。彼は高校3年生の頃だったろうか。こんなメッセージを送ってくれた。
「俺は今までの人生の半分近く土筆塾にいたわけだけど、最近は基地を作って遊ぶ子や竹鉄砲、パチンコなどで遊ぶ子も見なくなってきて残念だが、土筆だけは昔と変わらないし、変わってほしくない。
 帰りたい/帰れない/少年と呼ばれた日々に/戻りたい/戻れない/はざまで叫ぶ俺がいる/そろそろ時代が動いてきた/危機感を感じ始めている/たとえ川の水が上から下へしか流れて行かないとしても/ただ黙って眺めているだけが我々の使命ではないはずだ/土屋先生、あなたに会えてよかった 
(『生きる力と優しさと』より)

 この学年は、高校卒業後も、同期会と称して何回か塾に集まった。この同期会の世話役は、だれが決めたわけでもなかったがY君だった。実に面倒見にいい、心やさしい青年になっていた。同期会が深夜に及んだときなどは、女の子も含めて一人一人を愛車で家まで送り届けた。
 昨年、中国上海在住のI君が、中国人の愛妻と幼い子どもを連れて訪ねてくれたが彼もこの学年の仲間だったし、今も土筆通信を読んでくれている獣医師として動物病院で働く双子の母親H子さんも、民医連の病院で働くY子さんも、同じく土筆通信読者のN子さんも、私の義母がショートスティでお世話になっている、特別養護老人ホームの大黒柱になっているS君も、みんなこの学年の仲間だ。まだまだ年賀状のやり取りなどでつながっている子は何人もいる。
 かつての仲間たちを話題に、私が卓球コーチで出かける時間ぎりぎりまで話は弾んだ。帰りぎわ、Y君は言った。「みんな離れ離れだし、仕事も持っているから難しいけれど、今度集まる機会を考えるよ。別なところでもいいけれどやっぱりこの教室がいいな」。
ちなみに、彼は私が土筆通信と一緒に同封しておいた「戦争法廃止2000万」署名用紙を、びっしりと書き込んでもってきてくれた。拙著『命ある限り、この一筋の道を』を3冊、そして沢山のカンパもいただいた。

 これらの子どもたちは塾の財産であり、私のかけがえのない財産でもある。
# by tsukushi--juku | 2016-01-16 12:09
迎春
       迎春
  昨年は、安倍自・公政権の暴走に怒りが広がった一年だった。
  怒りは、あきらめや無関心を追い出す、
  正義と、未来への希望と、若さの証。

  今年は、未来を見据えた歴史の大転換の年にしなければならない。
  戦争法も、原発も、沖縄基地の拡張も、消費税10%もごめんだ。
  すべての面での生活破壊と格差の拡大、戦前回帰は許せない。

  若者たちに期待しよう。
  若いママたちに期待しよう。
  老若男女、日本のすべての良心に期待しよう。
  
  戦いは毎日。
  怒りを七月の参議院選挙につなげよう。
  小異を捨てて大同につく、連合政府樹立へ。

  それが子どもたちへの大人の責任。

                     『子どもの未来と憲法を考える会』
                        清瀬市中清戸三―二五一 土屋春雄
# by tsukushi--juku | 2015-12-31 22:45
心の財産が増えていく
            心の財産が増えていく

 先日、卓球仲間のIさんの個展を観に、郷土資料館に行った。Iさんは拙著『生きている限り、この一筋の道を』の表紙絵を描いてくださった方。絵を観賞した後しばらく談笑したが、その折出会った方から長文のお手紙をいただいた。実は拙著『命ある限り、この一筋の道を』を読んでくださると言うので送ったのだが、お手紙はその感想を含めてのものだった。勝手だが、掲載させていただくことをお許しいただこう。
 
 年の瀬を迎え、どことなく背中を押される思いがいたします。
Iさんの個展でお目にかかり、短い時間ではありましたが楽しいお話を聞かせていただきました。
 先日土屋さまのすばらしいご本が届きました。本当に有難うございました。私、もう、四度よみました。
 一度目は、なにがかかれているのかな
 二度目は、土屋さまってどんな人かな
 三度目は、えっ、こんな本、こんな人はじめてだ!
 四度目は、凄い!激震
 嘘ではありません。人生観が変わりました。読めば読むほど、文章がエネルギーを放ち、迫ってくるのです。体を張って正面からぶつかってくるのです。これでもか、これでもかと…。何度でも読みたくなるのです。この凄さって何だろう…。分かりました。ごまかしと言い訳がどこにもないのです。まえがきからあとがきまで、一言一句丁寧に読ませて頂きました。これから先も、何度でも繰り返し読むと思います。困った時、悩んだ時、必ず手に取る書籍となりました。澄みきった心と、温もりと、真実があるからです。
 年代は違いますが私は市ヶ谷の学校へ行っていました。そして四畳半の城は、高円寺のちに幡ヶ谷に移りましたが、青春の思い出が重なり合うように甦ってきました。
 今では、このご本があちこちに印(丸、星、レ点…)やらラインが引かれ、ペタペタと付箋が貼られ、私の人生の参考書になってしまいました。(汚してしまってごめんなさい)P41「他者を除いた自分だけの世界はなかった。自分の幸せは常に他者の幸せであった。」P89「僕の一日」より「他人のこと、自分のこと、そんな区別はありはしない――」どうしてこんなにもヒューマニストなんでしょう。雨の中人がさしている傘を奪うような世の中なのに、あぁ、いったい私は何を求め、何を信じ、何を幸せと思ってきたのでしょう。愕然とします。
 忘れてしまったあのことも、このことも、昔はそうだったな~と、ありきたりな幸せを装って生活している。心の奥に、赤茶けた古新聞のようにたたみこまれた心の襞をもう一度開いてみるのもいいのかもしれない。辛いけどね。
 土屋さまの「入党記念日に」の詩は最高に素晴らしく、(もちろん感動的な詩は沢山あります)思いました。土屋さまってどんな人?この詩を読めばすべてわかる気が致します。
『この一筋の道…』と出会えて、心から感謝しています。ありがとうございました。この頃、仮面をかぶって生きている自分がいてうんざりです。どこか逃げ腰になっています。
 くれぐれもお体を大切になさってください。」

 身に余る感想をいただいた。
 拙い本がまた一つの出会いをくれた。心の財産になった。

 もう一通。拙著『…この一筋の道を』を送ってほしいと、昔小学生だった塾生のお母さんから電話があって、本を送っていたが、本代と共に、手紙が届いた。

 うーん、昔の話、共感!まずしかったですよね。
 うーん、先生はすごいですネ。
     そこまで強くなれるのは
     信じる力、でしょう。
 今私は社協の相談員してます。わけのわからない、やり場のないクレームに、仕事を続ける気持ちすらなえてしまいそう。でも少し元気になれそうです。先生のまねは無理ですが、もう少し続けてゆける気がしました。

とあった。細々と、金には恵まれない生活だが、心の財産は増えて行く。新たなエネルギーをいただいているわけだ。ありがとう。
# by tsukushi--juku | 2015-12-21 09:41