2013年 01月 22日
ある日の会話―政党交付金について
「あなたの家は何人家族ですか。」 「4人ですよ」 「それでは年間1000円を政党交付金(政党助成金)として、納めているということになりますね」 「どういうことですか?」 「お年寄りから赤ちゃんまで、一人250円のお金が、政党助成金として5人以上の議員を持つ政党に議員数と国政選挙での得票率に応じて交付されているんだ。先日の衆議員議員選挙の結果日本にはいくつ政党があると思いますか。自由民主党、民主党、日本維新の会、公明党、みんなの党、日本未来の党、共産党、社民党、国民新党、新党改革、新党きずな、たちあがれ日本、新党日本、新党大地。これだけの政党がありますね。日本共産党を除くこれらの政党に配分されるんだ。これらの政党を支持するか否かにかかわりなく私たちは一人250円をこれらの政党に拠出しているということになるわけ。日本共産党を除くと言ったのは、共産党はこうした制度を憲法違反とし、制度そのものを廃止することを要求して受け取りを拒否しているからです。支持してもいない政党の活動に国民の税金が配分されるというのは憲法の思想信条を無視した憲法違反というわけだ。」 「どのくらいの金額になるんですか?」 「1月20日の朝日新聞によれば、今年分の総額は320億1400万円、年4回に分けて交付される。政党別に試算すると、自民党は参議院と合わせて議員数が大きく躍進したから377人分145億9000万円。民主党は議員数を大きく減らしたから大幅に減って89億5800万円。以下ぞろぞろと誕生した政党を含めて金額を、列挙すると、日本維新の会27億2500万円、公明党25億6600万円、みんなの党17億9400万円、日本未来の党8億6500万円、社民党5億4200万円、国民新党2億4600万円、新党改革1億2500万円。(新党きずな、たちあがれ日本、新党日本、新党大地は、国会議員が5人未満のため交付資格を失った)ということになるようだ。」 *100万円未満を切り捨てているので計算が一致しない部分がある。 「驚いたね、まったくおかしな話ですね。ところでこうして配分された助成金は何のためにどう使われるんですか」 「それぞれの政党の政治活動のために使われる、ということになっているが、使用明細を報告しなくてもいいことになっているから、それぞれの議員の政治資金の中に組み込まれ、自由に使われるということもあるようだ。例えば自民党麻生副総理兼財務・金融相の例で、新聞で報道されたものについて言うと、彼の資金管理団体「素准(そわい)会」が政治資金を使って2009年から11年の3年間で約6000万円もの飲み食いをしていたということだ。銀座や六本木、赤坂などの高級クラブや料亭、会員制サロンなどで使われていたという。これも“政治活動”というわけだ。こうした例は新聞沙汰になるものだけでも結構ある。選挙中テレビなどのコマーシャルで政党宣伝がおこなわれるのも、政党助成金の一部だよ。 国民一人当たり250円を原資とする政党助成金の制度が導入されたのは「企業・団体献金」が世論の批判にさらされた折、それに代わるものということで強引に、多数によって作られた。したがって「企業・団体の政治献金の禁止」が前提の制度だった。ところがいつの間にか企業団体の政治献金は復活し、企業からも献金をもらい、政党助成金ももらうという『ぬれ手に粟』の二重取りというわけだ。」 「へぇ、あきれますね。自公政権も、前の民主党政権も、盛んに「国会議員も身を切る」とか「国家公務員の削減・給料の削減」など言っているけれど、政党助成金こそなくすべきではないですか!」 「その通りだね。身を切るのなら、まずこんな制度はやめるべきだ。そのほかにも国会議員の特権はいっぱいあるよ、例えば、JRや飛行機に無料で乗れる特権とか(毎年約13億円を支出しているよ)国会議員に支出される交通費や郵便代1人月100万円とか、国会の常任・特別委員長に支給される1日6000円の手当などだ。こうしたことこそ「身を切」らなければならないよね。」 「そんなこともあるんだ!しらなかったねぇ」 「本来政党というのはね、国民、市民としっかりと結びつき、自らの政策と活動を通して支持を得、国政の舞台で活動しなければならない。ぼくはね、先の衆議院選挙を前にして政党を選ぶ基準としてつぎのように書いたよ。 「全国の隅々に、党員と党組織を持ち、市民・住民と深く結び付きながら日常的に活動している党であるかどうか。また、労働、農業漁業、医療、子ども・教育、文化・芸術、学者・研究者・知識人などなど、各分野に党員と党組織を持ち、日常的に、系統的に活動している党であるかどうかということ。 自らの活動を通して自前で党財政を確保・確立している党であるかどうかということ、企業・団体からの政治献金(パーティ券などの事実上の政治献金を含む)や国民の税金をもとにした政党助成金頼みの政党では、本来の近代政党とはいえない」とね。 企業献金は企業・団体の利益を守るという見返りが付いて回るし、政党助成金は自らの努力をあいまいにし、税金で党運営をするという政党としての堕落を意味する、ということになるよね。 政治は一見、混沌としていて何が本物か見えないようだけれど、よく見れば決して分からないことはないよ。目先のことに目を奪われることなく、今こそ政治の「王道」を貫いている政党に目を向けるべきではないかな、ぼくはそう思っているよ。政治を動かす力は議員の数だけでは見えてこない。「原発ゼロ」を要求する運動で首相官邸前行動に20万を超える市民が集まったとか、その運動が今も継続し、全国で呼応する運動が広がっているとか、消費税増税反対の運動とか、TPP参加反対の運動とか、沖縄のオスプレイ配備反対、基地撤去の運動など、各分野での国民の運動が大きく広がる、その力こそが政治を変え動かすのだ、そして、それと結びついた国会活動が求められるのだと、ぼくは思っているよ。 いずれにしてもあきらめてはいけないよ。僕らの生活も、子らの将来も、日本の未来もすべて政治に左右されるのだから、しっかり考えて行こうよ。 ちょっと理屈っぽくなったかな。」 #
by tsukushi--juku
| 2013-01-22 22:10
2013年 01月 12日
高3K子のこと
高3K子のことについては土筆通信で何回か書いているので、改めて書くつもりはない。昨年暮れ進学する大学も決まったから、3月で土筆とはお別れということになるのだろうが、去年最後の日に書いた作文はぜひ載せておきたい。 とにかく小学2年生から土筆に通ったのだから、今までの塾生の中では一番長く通ってくれたことになる。いろいろな思い出もあるが、K子が小学生のころの「あてのない遠足」の想い出は鮮明だ。武蔵横手に行った時のこと。元、田んぼでもあったところだったのだろう土手の斜面にセリが群生していて、地主に断って芹摘みをしていたわけだが、夢中になっていた紅実子が、湿地のぬかるみに足を取られて、靴も靴下もドロドロ、脱げてしまった。靴をひっぱりだしてドロをぬぐったのはいいが、靴下はとても履ける状態ではない。私の靴下を脱いでK子にはかせて、何とか取り繕ったということがあった。ぬかりみに足を突っ込んだ時のK子の顔が今でも思い浮かぶ。 ちびだったK子が次のような作文を書くようになったのだ。土筆塾最後の作文ということではないかもしれないが、とにかくその作文を紹介しておこう。 一年を振り返って 高3 K子 一年というより、少し昔から振り返って考えてみる。 私はいつから「型にはまった教師」が嫌いになったのだろうか。小学校の頃は特にそんなことを考えたりはしなかった。考える暇もなく、友達や土筆塾のみんなと遊びに夢中になっていた。となると、やはり中学生になってからなのだろう。 私は、中学時代教師に恵まれなかった。どの教師も、「教師の型」にはまって抜け出せないようなカッチカチの「教師」ばかりで、嫌いだった。 そして、高校生の今でもそうだ。高校でも嫌いな「教師」は多い。私はかなりの「人嫌い」のようだ。 しかし、私は教師とは別の「先生」には恵まれている。これに土屋先生も入る。私なりの言葉で言うと、「型にはまらない教師」か「子どものような大人」だろう。土屋先生しかり。私の周りには本当に元気な爺婆が多い。六十過ぎ、中には七十も超えているだろう人たちなのだが、とにかく元気がいい。ある人は冬スキーをするために海外に行く。またある人は街の清掃活動に率先して取り組み、だれよりも(学生よりも)終わった後元気、などなど。その人たちが集まれば山は登るし、バトミントンや卓球などスポーツはいろいろやるし、当時、中学二年生だった私が百人一首をやろうと言えば、中学生相手に本気で来るし、とにかく元気。百人一首の時は勝てる自信があったのに、私は結局勝てなかった。その時は本気で悔しかった覚えがある。その人たちは私に「まだまだ負けない」と言ったが、私が「中学生相手に、大人気ない」と言い返せば「それが私たち…」とでも言いたげに笑われたのも覚えている。 私はこの人達を、尊敬をこめて心の中で「妖怪爺婆」と呼んでいる。母が内緒で呼んでいたのをピッタリだと思ったからだ。ちなみに土屋先生は妖怪爺婆に含まれない。妖怪爺婆は私に会うと「大きくなったね」といい、私はお世辞抜きで「変わりませんね」と言える。あの人たちは年々若返っているように私は感じる。でも土屋先生はちゃんと年をとっている当たり前の人間と言えるからだ。 さて先ほども書いたように妖怪爺婆だが、中学生相手にも容赦はしない、しっかり自分の力を見せつけるところが大人気ない。これほど大人気ないという言葉が似合う人はいないと言いたくなるほど大人気ない。しかし、これほど「人生の見本」としての「先生」はいないであろうと思える人達だ。 妖怪爺婆も土屋先生も私にとっては自慢の「先生」だ。学校の教師には恵まれなかった私は「遊びの先生」にはとても恵まれている。まだ十八年しか生きていないけれど、これは私にとってとても自慢できることだと分かる。将来自分がどんな人になるかまだまだ分からないが、そんな爺婆の仲間入りが出来ていたら良い、と思う。(土筆通信1219号の一部) #
by tsukushi--juku
| 2013-01-12 15:44
2012年 12月 29日
ステキなプレゼント
一年生のSちゃんからステキなプレゼントをもらった。折り紙で折ったペンダントと十字手裏剣だ。 こんな手紙が添えられていた。 つちやせんせいへ 火ようびにいつもさんすうをおしえてくれる つちやせんせいがだいすきです。 これからもさんすうをおしえてくださいね。 よろしくおねがいします。 今、土筆塾には一年生のSちゃんが一人通っている。今まで一年生は受け入れていなかったが、まだ学校にも上がらない小さいころから塾に通っていたお兄ちゃんについてよく来てくれていた。小学校に上がってしばらく顔を見なかったが、今度塾に入りたいと言ってきた。おばあちゃんの車で送り迎えされて嬉しそうにやってくる。算数だけの勉強だがとても張り切っていて勉強がどんどん好きになっていくみたいだ。帰り際には握手をして「またね!」という。土筆塾は、二十二日で今年の授業納めだが「冬休みもやりたいな」などとうれしいことを言ってくれる。 Sちゃんのプレゼント、さっそく塾の教室に飾っておこう。 土筆通信にも紹介したが、先日は三年生のM子ちゃんが、ドングリを使ったクリスマスツリーをプレゼントしてくれた。これも教室に飾ったが、教室はこうして子どもたちから頂いたプレゼントで一杯だ。修学旅行のお土産、家族で旅行した時のお土産、いろいろな折に送ってくれるプレゼント、手作りのものも多い。塾の板壁には、あちこちの土筆通信読者からのものも含めて、ところ狭しと飾られている。飾りきれなくて「引退」したものも多い。 土筆塾の教室は、勉強の空間でもあるが、こうした子どもたちとの心の交流の空間でもあり、全国あちこちから届く通信読者との心の交流の空間でもある。「そこにいるだけでなんとなく心が豊かになる」そうした場であり続けたいと思う。 教育は決して「競争」ではない。今回の選挙の結果再び登場する自民党安倍総理は、教育の改革を声高に叫ぶ。彼の言う教育は、私が願う教育とは正反対のものであることは間違いなさそうだが、私は実践を通じて対決していきたいと思っている。 土筆の子どもたちは授業の合間を見ていろいろな遊びを楽しむ。時には昔そうであったように作文の授業を使って遊びを楽しむこともある。ビーダマであったり、ベーゴマであったり、竹トンボであったり、木の股を使ったパチンコであったり、あるいはまわり将棋や、百人一首の「坊主めくり」であったりする。 日曜日や祭日を使っての、春の山菜摘み「あてのない遠足」や、秋の「ムーミンの家」への遠足などもある。すべてが子どもどうし、また、親と私の心をつなぐ交流の場だ。こうしたことが時には心ない「噂」になることもあるようだ。「土筆塾は遊び塾だ」と。かつてもそうだった。遊び塾であったかどうかは子どもたちがよく知っているし、卒業した子どもたちのその後の歩みが何よりも土筆塾を証明してくれている。 教育は単なる知識の伝達ではない。目先の成績だけを追求するのではない。知識の伝達、成績の向上はもちろんだが、それを支える心の成長が大切なのだ。私はそう思っている。 今年の六年生の作文の授業の最後の日、次のような作文を書いた子もいる。 今年のつくし 6年 T・Y 今年も、もうすぐお正月だ。ぼくには小学校生活最後でもある。来年の4月からは中学生だからだ。 ぼくは、つくしへほぼ5年は入っている。毎年必ず行く「あてのない遠足」や秋の「ムーミンの家」への遠足。昔の遊び。そしてもちろん、作文などの勉強。 つくしでは普段の生活ではやらない昔遊びなどができる。それはゲームなどよりも何倍も面白い。ビー玉、ベーゴマ、パチンコ、それに周り将棋などだ。それらをつくしでは作文の授業の時に月1回はする。ぼくはそれが楽しみだ。 あと何週間かで一月。それまでしっかり遊んで、勉強して、楽しく過ごしたい。そして、来年もつくしじゅくを続けたい。 今年も間もなく終わる。新しい年を新たな決意で迎えたい。 衆議院選挙結果に思う 衆議院選挙が終わった。民主党の大敗、自民党の「大勝」という結果に終わった。私は土筆通信1214号(11月30日)に「私たちが政治離れをしても、政治は私たちから離れることはありません。私たちの現在の生活のすべても、将来も、すべて政治に左右されて動いているのですから」と書いたが、投票率は戦後最低、60パーセントを切った。 私はまたこの通信で「現在の選挙制度は、政権党や大政党が有利になるような仕組みです。だから、またまたそれらの政党が政権を握り、くっついたり離れたりしながら政治を動かすことになるかもしれません。…」と書いた。まさにその通りになった。43%の得票で79パーセントの議席を占める。小選挙区制の弊害がはっきりした。 議席の上では自民党は大勝した。だが比例区では自民党は219万票減らしているのだ。自民党の大勝は、低い投票率と小選挙区土台の選挙制度に助けられたと言っても過言ではあるまい。国民の多数が無条件で信任したわけではない。(ちなみに公明党も94万票を減らしている) しかし、とにかく自民党は「大勝」し、政治権力は自民、公明に握られることになる。12月20日の朝日新聞によれば、今度の選挙の結果、政党助成金が自民党は44億円も増えるという。今回どう変化するか分からないが、今まで民主党の政党活動費の83パーセント、自民党のそれは72パーセントが政党助成金だった。国民の税金で」党活動をしているまさに「国営政党」だった。加えて企業団体からの政治献金。根っこがこんなに歪んでいるのだから、いずれ国民との軋轢は増していき、その「政権」はまたまた「短命」ということになるのではないか。私たちは、政治の在り方の根本に目を向け始めてもいいのではないか。 負け惜しみではないがそんなことを思う選挙結果だった。 新しい年、国民各層のそれぞれの分野での運動が大きく広がっていくことを期待したい。それこそが政治を変える真の力だと信じるから。 (土筆通信 NO1217号より) #
by tsukushi--juku
| 2012-12-29 18:45
2012年 12月 05日
東京都知事選挙と衆議院選挙
都知事選挙が告示され、12月4日には衆議院選挙が告示されますね。都知事選挙は、石原前都知事が都知事を辞めた後の選挙です。石原前都知事は、国政に乗り出すということで、太陽の党を結成、すぐ日本維新の会と合流、維新の会が国政選挙に臨むということになりました。今回の都知事選挙は、石原後継を名乗る候補と、反原発を正面から掲げた「人にやさしい東京を作る会」の候補との、事実上の対決を軸にした選挙になりそうです。 衆議院選挙は、自公民の談合政治の受け皿と称して雨後のタケノコのように誕生した、寄り合い所帯の政党の乱立、混沌とした中で戦われることになりますね。どの政党どの候補者がいいのか分からない、などとあきらめたり、選択を迷ったりすることのないようしっかり考えていきたいものです。選挙期間中だから詳しいことは書けません。ただ私は次のことを基本に考えたいと思っています。 一、その政党が明確な日本の将来の在り方についての展望、政党の憲法とも言うべき「綱領」を持っているかどうかということ。政治、経済、文化、外交を含む国民生活の全分野で、系統的で、一貫した政策と展望を持っているかどうかということ。 二、全国の隅々に、党員と党組織を持ち、市民・住民と深く結び付きながら日常的に活動している党であるかどうか。また、労働、農業漁業、医療、子ども・教育、文化・芸術、学者・研究者・知識人などなど、各分野に党員と党組織を持ち、日常的に、系統的に活動している党であるかどうかということ。 三、自らの活動を通して自前で党財政を確保・確立している党であるかどうかということ。企業・団体からの政治献金(パーティ券などの事実上の政治献金を含む)や国民の税金をもとにした政党助成金頼みの政党では、本来の近代政党とはいえない。) 四 歴史的に見て、一貫性を持ち、ぶれることなく、どんな困難にも屈しなかった党であるかどうかということ。 などなどです。 私たちが政治ばなれをしても政治は私たちから離れることはありません。私たちの現在の生活のすべても、将来も、すべて政治に左右されて動いて行くのですから。政治は「数」がものをいう世界です。数が増えれば発言の機会や発言時間が増え、発言力が増します。それが国民の声と結びついて政治を動かすのです。 現在の選挙制度は、政権党や大政党が有利になるような仕組みです。だからまたまたそれらの政党が政治を握り、くっついたり離れたりしながら政権を動かすことになるかもしれません。でも離合集散を繰り返す政治は、またまた国民から見放され、その政権担当期間は一層短くなっていくでしょう。 今大切なことは政党の「王道」を貫き、すべての分野で国民の声を反映させる発言力を育てることです。それが従来の政治を転換させる力だとわたしは思っています。 しっかりと考え、「まただまされた」ということのない選択をしていきたいものです。(土筆通信1214号の一部) #
by tsukushi--juku
| 2012-12-05 10:32
2012年 11月 15日
反原発1000000人「大占拠」集会に参加
11月11日(日)反原発大集会に参加してきた。主催:首都圏反原発連合の今回の集会は日比谷公園を出発して午後1時から国会・霞が関周辺をデモする予定になっていたが、東京都が日比谷公園使用を禁止したため(市民の権利を奪い表現の自由を侵害する許し難い暴挙だ)1時からのデモは取りやめとなり、午後3時から、国会周辺と周辺の省庁をまわる抗議・占拠行動と、午後5時からの国会正門前大集会になった。雨の中だったがどれだけの人達が参加していたのか、全体像は全くつかめなかった。 わたしたちは清瀬の人達と3時からの抗議行動に参加した。首相官邸前、国会正門前、外務省前、文科省前、財務省前、など周辺の各エリアでのデモとなったが、集会場所がないため、路上をおびただしい数の人達がしきりなしに行進した。辻辻で演説する人たち、さまざまな衣装で踊る集団、太鼓やドラムを打ち鳴らすグループ、「原発要らない」「再稼働反対」「子どもを守れ」「命が大事」思い思いのスローガンを叫びながら行進する、まさに「周辺大占拠」だった。わたしは5時からの国会正門前大集会には参加せず引き上げたが、この日の参加者は延べ100000人(主催者発表)だったという。 また、この日の大占拠行動に呼応して、全国2百数十か所で集会が持たれたというからその数は膨大なものだったろう。路上の演説の中に次のように叫んでいる人がいた。「私は静岡・清水市から来ました。野田首相、貴方が国民の代表であるなら、この声を聞いてください。私たちの前に出てきてください」まさにその通りだ。 今、国会は国民の想いとかけ離れた政権争いに明け暮れ、選挙目当てに次々と政党が誕生している。同じ泥水の水溜りをかき回して、我こそは国民の代表だと、主導権争いに明け暮れている。マスコミもその中にどっぷりはまりこんで、真実から眼をそらすことに一役買っている。 わたしは真実を見据える基準はただ2つだと思っている。大企業・財界の要求にどういう態度をとるのか(大企業から政治献金をもらうかどうかもその1つだ)ということ。もう1つはアメリカの要求にどういう態度をとるのか(沖縄基地やTPP問題を見るがいい)だ。今、国民と日本を取り巻くすべての問題の根っこはここにある、と私は思っている。 論文を書くわけではないから大変舌足らずな意見だが、ひとこと言っておきたい。 いよいよ国会が解散される。次々と選挙目当ての政党が誕生し、15を超える政党が耳触りのいい言葉を並べているが、これらの政党に所属する面々、今まで何をやってきたのか、心して見極め、選択を誤らないようにしたい。 (土筆通信1213号の一部) #
by tsukushi--juku
| 2012-11-15 15:38
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