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by tsukushi--juku
土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

かいこ学習
               かいこ学習
                                         3年 S・Y

 今日学校でかいこ学習があった。前からずっとかっていたかいこも今日でおわかれだと思うと悲しくなってくる。
 最初にやったのは、糸くりといってまゆの糸を紙にまく作業だった。なんと、一万三千回もまくとまゆの糸がなくなるらしい。でもそんなにまけなかった。
 次の三時間目はシルクスルーと言ってとても楽しかった。まず、ペアを作ってまゆを水の中に入れる。やわらかくなったまゆをペアでタテヨコとのばしてゆき、がくの紙にのせる。その作業をもう一回し、作っておいた押し花をかざる。そしてのばす作業をまたやって、その上に紙をのせれば完成だ。完成したシルクスルーはとてもきれいだった。
 最後の四時間目はずりだしという作業でかんたんそうに思えた。なぜなら、さなぎがとってあってかんそうしたまゆをのばす、それを、ももで同じ方向へ押してゆく、ただそれをくり返すだけの作業だからだ。でもい外とむずしかった。糸が切れたり、糸がこんがらかったりするからだ。でも一おうできた。最初は下手だったがだんだんコツがつかめてきた。
 じゅぎょうが終わって、ボランティアの人たちにおれいをいって、かいこ学習は終わった。
 かいこはぼくたちに命をくれて、いろんなことを教えてくれたのをかんしゃした。

             「かいこ学習」の季節

 毎年かいこの季節になると思い出す。現在中学一年生になっている子どもたちが小学3年生の頃、子どもたちもかいこ学習のことや、家でかいこを飼育したことを作文に書いてくれた。かいこボランティアをしているお母さんたちからの投稿もいただいて、土筆通信に掲載したこともあった。私も、子どもの頃家で飼育していたかいこの想い出を書いたこともあった。また、もう、26年近くなるが、かいこと子どもたちに触れた文章も、拙著『学び創り遊ぶ』から再録して、通信に掲載したこともあった。今年も子どもたちが作文に書いてくれた。親からの投稿もあるといいのだが、と思いながら、土筆塾を開いて、最初にかいこに触れて書いた文章を、やはり『学び創り遊ぶ』から再録させていただくことにする。すでに読んでいる方には申し訳ないがお付き合い願いたい。
 
 
             先生桑の葉ある?


 三年生の授業をやっていると、自宅の方の玄関のチャイムが鳴った。授業に集中している時はチャイムが鳴っても出ないことにしているのだが、その時はちょうどきりがよかったので玄関に出た。ドアを開けると四年生のKちゃんが立っていた。手にカイコ(蚕)の入った箱を持っている。
「どうした?」
「先生、桑の葉ある?」
「えっ?」
と私は一瞬びっくりしたが、すぐ事情が呑み込めた。
「今、家にはないよ。授業が終わったら、後で摘んできて届けてやるよ」
「うん!」
Kちゃんは声を弾ませて答えると走って帰って行った。
 その日、小学生の授業は五時四十分に終わった。六時からは中学生の授業だ。本当は小学生の授業は五時半に終わるのだがこの日はちょっと長びいた。桑の葉は、自転車で五分もかからないところにあることは、日ごろ近辺をくまなくあるいているからよく知っている。桑の葉を摘んで、今度はKちゃんの家へ直行する。玄関へ出てきたKちゃんは、「ありがとう」とニッコリする。その顔が輝いている。お母さんが玄関に出てこられたが、話している暇はない。あいさつもそこそこにまた大急ぎで塾へ戻る。六時五分前。
 わたしの居住している校区の清瀬第十小学校では、毎年四年生がカイコを飼う。それぞれのクラスで飼うのだが、土曜日から日曜日にかけて、また、学校が休みになる前には、それぞれカイコを家に持ち帰る。去年も近所の子どもに桑の葉のある場所を尋ねられた。
 こうしたことがあるたびに、私は“地域で塾をやっているっていいなぁ”と思う。これが駅前かどこかの貸しビルで、時間から時間までしか付き合えないとしたら、何とつまらないことだろう。
 教育は単なる知識の伝達ではない。子どもの生活の様々な面でかかわりを持ちながら、人間と人間のふれあいやその中で作りだされる信頼関係を土台に、子どもの内面に働きかけながら「人間としての豊かさ」を作り出すこと、それが欠くことのできない教育の中身なのだとわたしは思っているが、そのためにこそ、地域に根を下ろすことが大切なのだと思う。Kちゃんではないが何時でも子どもたちが学校の帰りや遊びのついでに「先生!」と立ち寄れるような関係が必要なのだ。(拙著・「学び創り遊ぶ」毎日新聞社刊より)
by tsukushi--juku | 2014-06-30 09:41