土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

土筆通信1000号の重み
土筆通信1000号の重み
土筆通信が1000号を超えた。
第1号が1983年4月2日となっているから、塾を始めて7年目と言うことになる。それまではガリ版刷りの、「土筆塾ニュース」と言うのを不定期で発行しているが、定期的に発行するようになったのはこの第1号からということになる。24年間で1000号になるわけだ。基本的には1つの号はB4裏表と言うことだが、B4裏表2・3枚という号もあるから枚数にしたら相当数にのぼる。第1号には「今年度は『土筆通信』を発行することにした。毎日毎日の生活の中で、また授業や子どもたちとのふれあいの中で、気づいたことや、感じたり考えたりしたことを、どんどん書いてみようと思う。どこまで長続きするか・・・父母や生徒の皆さんの、おしかり、激励をお願いしたい」と書いている。この当時はいつまで続くか自信もなかったのだろう。
 こうして出発した通信が24年間で1000号になったわけだ。
 今振り返ってみると、ここには間違いなく一つの歴史がある。それはこどもたちの日常と成長の歴史であり、親と、この小さな塾が、ともに子どもたちの成長にかかわり続けてきた歴史であり、私自身の生きてきた歴史であり、さらに言えば我が家の歴史でもある。それぞれの時代の中で、子どもたちは何を感じ考えてきたのか。それぞれの親は土筆塾とのかかわりの中で、何を感じ、何を考えてきたのか。私自身は何を学びそして何を発信し続けてきたのか。私のことに関していえばそれだけではない。私の生い立ちから始まる73歳の今にいたるまでの生き様そのものも、また、我が家の子育ても、ここには反映されているといっていい。
 さらに付け加えれば、土筆塾10周年を機に出版した本『学び創り遊ぶ』の頃から広がり始めた読者との交流が、その後の本の出版や、あちこちで講演したことなどを通してその後も増え続け、土筆通信を軸にした人の輪が広がり、土筆通信がそれらの人たちを結びつける役割を果たしてきた、そうしたことも土筆通信1000号の歴史に加えていいだろう。
 いま「草の根民主主義」と言うことが言われる。一人一人の心の中にしっかりと根付いた民主主義が求められているのだ。政治権力や政治体制の変化に振り回されて、大勢に押し流される人間ではなく、自らの意志でことのよしあしを判断し、大切なときには行動に立ち上がれる人たち、いまそれが求められている。土筆通信1000号の歩みは、ささやかではあっても『草の根民主主義』の発展に貢献してきたのではないか、そんな自負がないわけでもない。
 土筆通信の歩みに触れながら書いてみたい。1000号と言うと膨大な量だから、あくまでもその一部に触れながら、ということになる。

土筆通信に描かれた子どもたち

 まず1984年代の授業風景について触れる。4月その年学童保育に入れなかった子どもたちがそろって塾に入ってきた。その最初の授業風景だ。土筆通信は次のように書いている。

 なんと何と、大変なにぎやかさになってしまった。今年度は市の学童保育が2年生で打ち切りになったので学童に入ることのできなかった三年生が6人も入塾してきたのだ。初日、この子たちは3時40分からの授業なのに2時過ぎにやってきた。入塾のお祝いと言うわけではないが作っておいた竹とんぼを1本ずつプレゼントして外の駐車場で飛ばすことにした。「学童がなくなったし、暇だから土筆塾に入ったんだ。そうだよねぇ」と一人が言うと「そうだよ、時間がありすぎるんだもん」。みんな口々に言う。「ひまだからきたのか?でも土筆塾は勉強をするところだぞ」と僕。「知ってるよ、勉強もする遊びもする。両方で得するもん」ちゃっかりしたもんだ。大騒ぎして竹とんぼを飛ばした。
 さんざん遊んだがまだ授業には間がある。とにかくみんなを教室に入れて今度は読み聞かせをすることにした。たかしよいち作『がわっぱ』を読む。読み終わる頃学童組み以外の子もやってきた、この日病欠の1名を除いて子ツバメみたいな子どもたちが8名そろった。

   これなんだか知ってる?

 さて授業開始。席順は阿弥陀くじで決めて、神妙な顔で席に着く。僕は日曜日原っぱを歩き回って見つけたつくしを子どもたちに示し「これなんだか知ってる?」と聞く。「つくし、つくし」子どもたちはいっせいに声を張り上げる。「そうだ、つくしだね。」僕は黒板に「土筆」とかく。「つくしと言う字は、土と筆と書きます。筆と言う字はふでと読んで、お習字のとき使う筆のことです。このつくしよく見てごらん、筆に似ているでしょう?」子どもたちは「ウン、似てる」と答える。「土筆塾はこの土筆から借りた名前です。覚えておいてください。」
 こう前置きして授業に入る。今日は算数だ。2年生で習った九九をどれだけ覚えているか尋ねると、みんな知っていると言う。「じゃ、聞くよ。先生が、にさんがと言ったら6と答えてね。一人ずついくよ。ろくは、ハイ、OO君。」「48」。「よしいいぞ、しちし、ハイ、OOちゃん」「28」こうして一通り聞いてみる。ちょっとつかえた子もいたがどうやらみんな合格。そこでこの日は「分かる算数・3」を配って2桁の数に1桁の数を書ける計算を教え、やらせた。

うっかり病の人は注射!

 繰り上がりのない簡単な計算だから子どもたちはどんどんやる。ところが進めていくうちに殆どの子が「うっかり病」にかかる。32×2(ひっさん)を66とやってしまうのだ。1の位とはかけて、10の位とはたし算をしてしまう。20×3(ひっさん)を63とやってしまう子もいる。
「ほら、うっかり病だ。」などといいながら実に楽しく授業を終わった。「ハイ、今日うっかり病にかかった子は早速治療します。」そういいながら一人ずつ、つくしを注射器に見立てて注射のまねをする。「よし、これで治る」。子どもたちは面白がって手を出し、「キャッ、くすぐったい」などと大騒ぎ、1時間はひどく早かった。

 算数でも国語でも授業は子どもたちが楽しく生き生きと、主体的に取り組めるようなものでなければならない。そのためには授業そのものの、工夫も大事だが子どもたちと心の通い合う関係を作ることも極めて大切だ。そしてこの心の通い合う関係はまた、子どもたちの内面的成長に大きな影響を与えるものなのだ。
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# by tsukushi--juku | 2007-06-12 12:50 | Comments(0)
土筆塾ニュースの頃
 土筆塾ニュースの頃

塾を開いた当初から、私は塾から親宛にニュースを発行し始めた。看板も掲げず、宣伝もしない、たった13名の寺子屋のような塾だったが、塾での子どもたちの様子はできるだけ伝えなければならない。塾とこどもと親を結ぶニュースが必要だった。
 「土筆塾ニュース」と名づけたこのニュースは、何号まで発行したのか正確には分からない。私は塾関係だけでなく手紙類を含めていろいろな資料を、ダンボールの箱に詰めて、物置代わりに使っている三畳に満たない部屋に積み上げてある。もしかするとこの中に手がかりになるものがあるかもしれない、そう思って大汗をかきながらひっくり返してみた。あった!「土筆塾ニュースの頃」というホッチキスで閉じられた一冊。めくってみると、何号か抜けてはいるが23部ある。最後は1982年3月23日となっている。『土筆塾ニュース』のあとに発行し始めた「土筆通信№1」が、1983年4月2日となっているから、土筆塾ニュースはこれが最後だったかもしれない。
 土筆塾ニュースはガリバン刷り、B4裏表のざらしに印刷された粗末なもので、№が打ってあると思うと日付が抜けていたり、日付はあるが№が抜けていたりと、内容はともかくとして、かなり雑なものだ。
 今回土筆通信は1000号を超えたわけだが、この『土筆塾ニュース』は1000号のなかには入っていない。このまま放って置けば紙も変色して読めなくなってしまいそうだ。それでは困る。なんといっても塾の歴史なのだからどこかにとどめておきたい。ここ何号かの土筆通信に何回か載せたが、新たに見つかった分をここに少し書きとめてみたい。

    教室風景  先生えんぴつけずってぇ!

 1年生から3年生までの子どもたちは、授業を始める前になると、大抵「えんぴつ、けずってぇ」と来る。「よし、早く出せ」というと、たちまち何本かの鉛筆が私の前に並ぶ。なかには2・3本出す子がいる。自慢ではないが私は鉛筆削りが得意だ。子どもの頃からやっていたからだ。
 私が子どもたちの鉛筆を削ってやるようになったのは、それなりの理由があった。私は、子どもが文字や文を書く時、一人一人の手元を見るようにしている。特に1・2年生は鉛筆の持ち方が気になるし、筆順が気になるからだ。そんな時ふと見ると何人かの子どもが、やっと芯が出ているといった鉛筆を使っている。これでは文字も正確に、きれいに書くことはできないぞと思った私は「そんな鉛筆で書いたら字がかわいそうだぞ、出せ」といってナイフで削ってやった。
 ところがその次の時もまた鉛筆は丸っぽ。「どれ、削ってやる。」こうしたことが繰り返され、とうとう毎回、鉛筆削りをしてやることになったわけだ。
 鉛筆は家で削ってくるにこしたことはない。自分で削るのであればもっといい。ナイフで削れるようであればなおさらだ。しかし、私は、授業の始まる前のわずかな時間、ナイフで鉛筆を削ってやることを通して、そこに子どもたちとの心の通い合いを感じ、それもいいことだな、と思うようになった。
 私の娘が「お父さんは、えんぴつのおいしゃさん」という作文を書いた。短くなって使えなくなった鉛筆を竹に差し込んでやっただけのことだが、子どもには「鉛筆のお医者さん」と思えたのだろう。ナイフで鉛筆を削ってやる、短くなった鉛筆を使えるようにしてやる。些細なことだが、そうした手作りが子どもの心に何らかの形で残っていくのではないだろうか。
 子ども達には、自分の手で物を作り、自分の頭で工夫するようになってほしい、私はそう思っている。
 先生、えんぴつけずってぇ!はまだ続いていくことだろう。(『土筆塾ニュース』№2)

 次の土筆塾ニュースは、1981年6月12日となっているが№が打ってない、前後の関係から判断すると№16と言うことになるだろう。「子どものやる気を育てるために(2)」となっているが(1)に当たるものがない。これだけでも書きとめておきたい。

   子どものやる気を育てるために(2)

 6月8日発行の子どもの作文集(当時私は毎週書かれる子どもたちの作文を何ヶ月かまとめて文集にしていた)のあとがきに、私は「子どもの個性を発見し、それを伸ばしてやることは教育の大事な仕事だが、それは生まれた時から子どもと接している母親の大事な仕事でもある」と書いた。そして「ところが今日、親も教師も子どもの個性を発見しそれを伸ばすことに心を砕くよりも子どもの個性を摘み取り、子どもを平均的人間にするために懸命になっているのではないか。たとえば、母親が子どもを評価する基準がテストの点数や、通信簿の成績中心になっていて、その傾向は高学年になるにつれて強まり、中学生になるとそれだけと言うことになっていないだろうか?」と懸念を表明しておいた。
 僕は教育の仕事の大事な側面として、子どもの個性を見つけ、それを認め激励し、伸ばしてやると言うことがあると考えているが、これはまた子どものやる気を育てることにも結びついているようにも思う。
 4年生のある子が、ブロック塀の小さな穴に、小鳥が巣を作り、のぞいてみても見えないけれど、耳を澄ますとピーピーひなの鳴き声がする。毎日ブロック塀に耳をつけてそれを聴いている、という作文を書いた。私はそれに触れて「あとがき」の中で「ブロック塀にじっと耳を当てて、雛の声に胸を躍らせる子どものみずみずしい感性は、点数には表れない。だがそれは、その子の成長にとってかけがえのないもの」と書いた。後で母親に聞いたのだが、この子はそのことが嬉しくって、その喜びようは大変なものだったと言う。この子はおそらくこれからもいっそう張り切って作文を書くだろう。
 これはほんの一例だが、やる気とは、その子の個性を認め評価する、ほんのささやかな営みの中で引き出され、育てられていくものなのだ、と僕は思う。
 よくやる気を起こさせるには、他人に負けるなと競争心を刺激し、点数を1点でも上げさせる競争に駆り立てることだと思っている方が、親にも教師にもいる。特に中学へと進み、受験という言葉がぶら下がってくるようになるとこの傾向に拍車がかけられ、やる気はそうした中で出てくるものだと思い込む。そして子どもがその競争に夢中になり始めると「やる気が出てきた」と喜ぶのだ。親のそうした気持ちは分からなくはないが、僕はこうした「やる気」にはいささか疑問を感じる。仮にそれが勉強意欲になったとしてもその競走の中で失う人間的損失の大きさを心配しないではいられない。
 マラソンランナーのように、ゆっくりではあるが、根気強く個性を発見し、それを自覚させ、自らの内から「やる気」がでてくるように激励し続けていくことが大切なのではないだろうか。「そんな理想論ばかり言っていられない」という声が耳元で聞こえるようだが、あえて書いておく。

 この号はまだ続くが、長くなるので、次回ということにしたい。
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# by tsukushi--juku | 2007-06-08 13:27 | Comments(0)
土筆塾30年
 
  はじめまして。
 今回土筆塾ブログを開設しました。なにぶんにも不慣れなのでドジばかりするかもしれませんが、よろしく。
 私は土筆塾という寺子屋のような学習塾を開いています。4月に塾30年を迎えました。一時の乱塾時代に、よくつぶれもせず子どもと、親と地域に支えられて生き残ってきました。私は塾通信として土筆通信を週刊で発行してきましたが、通信は1000号を超えました。今では全国に読者が散在しています。塾30年、土筆通信1000号突破を機に、ブログを通しても発信したいそうおもっています。 私のメッセージは多岐 にわたりますがとりあえず  第1回をおくります。

      かくして名もない塾が誕生した


 塾が誕生して30年を迎えた。この間、塾を卒業した子、あるいは何年か土筆塾にかかわった子は数えたことはないが膨大な数に上るだろう。塾の記録として私も4冊の本を書いた。『学び創り遊ぶ』(毎日新聞社)、『心を育み心をつむぐ』(八重岳書房)、『子を思う』(ふきのとう書房)、『生きる力と優しさと』(毎日新聞社)がそれだ。
塾が誕生したころを少し振り返ってみよう。

 塾が誕生したころ、生徒はわずか13名だった。1人しかいないという学年もあった。教室もまだなく、我が家の2階の6畳間に、テーブルを二つ並べて、向かい合って勉強した。黒板だけが真新しく大きかった。物干し台になっていたところを、近所の人に手伝ってもらいながら日曜大工で囲って粗末な屋根をつけ、そこに謄写版を置いて教材や文集、通信などの印刷所とした。なんともお粗末な寺子屋的塾だった。もっとも宣伝一つせず名前すらない、したがって看板も掲げない(『土筆塾』となった今も看板は掲げていないが)塾で、知っている人といえば私の娘たちの保育園・学童保育園時代の友人、知人ぐらいのものだったから、仕方がなかった。
当時、私の頭の中には、学習塾といえばいわゆる受験産業としてのそれしかなかった。その種の学習塾は現状では必要かもしれないけれど、決して本来の教育とはいえないと考えていたし、この種の「学習塾」には批判的な人間だった。だから私自身が学習塾を開こうなどとは思いもよらないことだった。
 私は学生時代から児童文学を学び、大学を出てからは教師になった。子どもが好きだった私にとって、子どもとかかわって生きることは生きがいでもあったし、子どもとかかわって生きられるところが私の居場所だとも思っていた。
 ところがある政党の要請で教師をやめ、政治活動に携わるようになって、青年運動、地方議員候補者、そして国会議員秘書と、12年間を子どもとはなれたところで過ごしてしまった。もちろんそれは私自身も望んだことであったし、これらの生活の中でたくさんのことを学び、かけがえのない体験をしたわけだからまったく悔いはないが、40代に入って改めて自分を振り返ったとき、もう一度子どもとかかわったところで生きたい、と言う思いに突き動かされたのだった。
そして当時の私の仕事であった衆議院議員秘書を辞したのだった。だが、もう一度教師に戻ることは、年齢制限に引っかかったこともあって、出来なかった。私は42歳になっていた。教師がダメなら何をするか、再就職は甘いものではなかった。
 そんなときだった。近所で親しくしていた方から「塾をやんなさいよ、あなたならきっと大丈夫。うちの子も頼むわ」などと話を持ちかけられたのだった。
 「学習塾といったって何も教育産業の片棒を担がなくたっていい。オレなりのやり方でやる塾だってあっていいはずだ。どこの塾にもない、学校教育でも出来ないオレ流の教育をやることだってできるだろう。子どもたちが来てくれるかどうかわからないが、とにかくやってみよう」
私はやっとその思いに到達した。こうして名もない塾が誕生したのだった。

    もう一つの学校・遊び場、そして家庭 

 塾を開いた当初、小学4年生として入塾した子どもたちが中学を卒業したとき、私はその子どもたちを『土筆塾』第一期生と呼んだ。途中から入塾した中学生も何人かいたが、開設した当初から在籍した子どもたちでは、4年生が最も上級生だったからだ。この第一期生が今年40歳になるが、振り返ってまず一期生のことについて触れる。
 1989年10月26日、私の住む清瀬市に10年前に誕生し、私自身もかかわり続けてきた『清瀬子ども劇場』が、11年目に向かう定期総会を開いた。私ももちろん出席したが、この総会の議長を務めたのは土筆塾の第一期生、I君だった。彼は土筆塾で中学三年まで学び、高校在学中はどこの塾にも予備校にも通わず『清瀬子ども劇場』の青年部の一員として、小、中学生の指導に当たった。一浪して、その間だけ予備校に通ったが、その後東大文化一類(法学部)に合格した。彼が東大合格の報告に来たくれたとき、私は「東大に入ったから偉いのではない、これから何を学び、誰のためにそれを役立てるかで、人間は評価されるのだ」と言った。民主的生き方を貫いてくれていると私は確信している。
 彼は現在参議院予算委員会事務局に勤務しているが、その後の歩みについては、毎日新聞社から出版した『生きる力と優しさと』の中で触れている。ところでやはり第一期生で千葉大を出てOLになっているOさんは高校三年の時、土筆塾で学んだ思い出をこう書いてくれた。

         土筆塾によせて

 土筆塾を語れといわれて、即座に一言で答えられる生徒は、私と同じように土筆にはそういないのではないかと思う。少なくとも私たち第一期生は、塾生であったときも現在もそうである。土筆は端的に行ってしまえば、私たちのもう一つの学校であり、遊び場であり、家庭だった。土筆にくればそれだけで、いじめっ子のことも友達とのケンカのこともみんな一時心を去ってしまう。安心していられた場所―私にとって土筆塾はそんな場所だった。
 特に私がもう一度受けてみたいのは作文の授業だ。私が小学生だった頃「書くことがまったくないはずはない」と土屋先生がよく言われたことを覚えている。「人間は思考して生きているのだから、普段思っていることを言葉にしてみろよ」そう先生は語りかけ私は物事にいちいち感じる心を自分も持っていると知った。また、日常を見直し自分を省みることを覚えた。もちろん、当時の幼い私がそこまで考えて「作文」を楽しいと思ったわけではない。「作文」は授業と言うよりも遊びだった。竹鉄砲や竹とんぼ、焼き物などを作ったこと、林の散歩、雪合戦、わら草履作り、・・・数え上げればいくらでもある。それらを作文の授業中にやったことは、ざらに出来る体験ではない。
 自分の手で作る楽しさ、それで遊ぶ面白さ。わたしは「作文」にいくたびに新しく何かを知って、そのたびにワクワクしたものだ。今でも私は林を散策するし、押入れには大切に竹とんぼや竹鉄砲がしまってある。
 最後に、われらが父親であり、遊び友達であり、相談相手であった土屋先生。土筆塾は土屋先生だからできたのだし、土屋先生なしの土筆塾はミソを入れない〝ミソ汁〟のようなものだろう。どうかもう二十年も三十年も長生きして土筆塾を続けていって欲しい・・・
                       (『学び創り遊ぶ』より)
 
 第一期生たちは今年40歳になる。土筆塾を卒業した子どもたちについてはその後どのような歩みをし、現在どう生きているのかを、限られた子どもたちではあるが『生きる力と優しさと』の中で、「卒業生その後」として少し書いた。卒業生の成長を見守る喜びをかみしめ、30年を振り返りながら、今改めて歩んできた月日を振り返っている。

    教育は人間が人間に働きかける営み

私にとって教育とはなんだったのか。『心を育み心をつむぐ』の中で私はこう書いた。
「教育とは、単なる知識の伝達ではない。まして伝達した知識をどれだけ覚えたかをテストで試し点数で序列化していく(さらに言えば、その内申点や偏差値で受験する高校まで振り分けられていく)ような営みでは決してない。
私は、教育を人間が人間を教え育む営みと考えてきた。教師と言う人間が、これから成長していく子どもという人間に、知識を伝達したり、知的、文化的あるいは人間的刺激を与えつづけたりしながら、子どもの心に働きかけ、子どもの心を揺さぶり、子どもの内にある力を引き出し、自覚させ、子どもが自らの力で学び、生きていく土台を作るために援助し続ける、そうした営みだと考えてきた。
教育が、人間が人間に働きかける営みである以上、そこには魂のふれあいがあり信頼関係がなければならない。現在の教育が「教えたことをどれだけ覚えたか」を点数ではじき出す、いわゆる偏差値重視の教育に汲々としている中では勢い魂のふれあいやぬくもりのある人間関係は切り捨てられていくだろう。そこで幅を利かせるのは管理を指導と錯覚した、管理主義と偏差値教育と言うことになりはしないだろうか?こうした傾向が学校も進学塾も含めてあちこちに無数に転がっていることを、私は残念に思う。
教師は権威を振りかざして子どもを管理するのではなく、一人の人間として、全人間性をかけて子どもと向き合わなければならない。子どもたちは、教師の人間的魅力、人間的力量、人間としての生きざまを通して、学ぶ喜びや意欲を引き出されるだけでなく、それを通して自らの心を育て自らの人間形成をおし進めていく。教師は、こうした面でもまた、子どもたちの援助者でなければならない。
私はそれに値する人間であるかどうかを自らに問いかけ続けながら、その課題を背負って子どもたちと向き合ってきた。」 (『心を育み心をつむぐ』より)
この姿勢は今も変わっていない。確かに歳はとった。だが、「日残リテ昏ルルニイマダ遠シ」(藤沢周平『三屋静左衛門残日録』より)といったところ。まだ昏れてしまうわけにはいかない。

 
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# by tsukushi--juku | 2007-06-04 23:06 | Comments(0)