土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

<   2014年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧
大雪
                  大雪と子どもたち
 
 今年は二度にわたって例年にないほどの大雪が降った。
大雪で思い出すことがある。まだ清瀬第五中学校が建設される前、この場所は広大な原っぱだった。塾からは二、三分の所。ある時大雪が降って原っぱは雪に覆われた。五年生の授業だったろうか。今は参議院予算委員会事務局に勤務するI君が、突然手を挙げて、「先生、雪合戦しよう」という。私が渋っていると、彼は立ちあがって「この中で雪合戦したい人」と叫ぶや、「はい、はい、はい」と自分で大声を上げ両手を突き上げた。つられてみんなが手を挙げて、とうとう雪合戦をやることになってしまったのだ。当時の五年生一〇数人いただろうか、みんな一斉に外に出て原っぱに向かった。雪は真っ白、さらさら雪だった。二手に分かれて入り乱れての雪合戦になった。もちろん私も加わった。さらさら雪だからなかなか雪玉にならない。雪をすくうようにしてかけ合った。一時間はあっという間に過ぎた。みんなまだ続けたいふうだったが、教室に戻った。実に楽しい思い出だった。
このころの子どもたちは実によく遊んだ。この子どもたちが中学を卒業する時書き残して行った作文をひとつだけ紹介してみたい。
 先の雪合戦を扇動(?)したI君。小学四年、塾誕生とともに入塾した第一期生。中三までを塾で過ごし、都立武蔵高校から、東大法学部を卒業して現在参議院予算委員会事務局勤務という足取りをたどる。拙著にもたびたび登場した。彼の作文だ。

ベーゴマに熱中したころ            (中三 F・I)

 土筆はぼくが4年生の時にできた。その頃は授業が始まるずいぶん前に塾へ行って授業の始まるのを待っていた。自分たちの前に授業のない時は、先生と一緒に遊んだ。ビーダマやベーゴマ、キャッチボール…。現在、5中の建っている辺りは原っぱだったので、そこで遊んだりもした。
授業では、作文の授業がとても楽しみだった。この授業の時は、よく教室を飛び出して林へ行き、えのきの実てっぽうの材料をとったり、竹笛を作ったり、木の股でパチンコを作ったりしたからだ。もちろんそのことは次の週の作文に書くのだが、楽しかった後はよく書けたものだ。
土筆で忘れられないのは、なんといっても僕にとってはベーゴマだ。あれは面白かった。僕が小学五,六年の頃だ。ベーゴマに熱中していたのは。あれはひもを巻けるようになるまでが一苦労だった。最初こぶを引っ掛けてひと巻したところを中心に巻いていくのだが最初が肝心だった。ひもが巻けるようになっても、なかなか回せない。軽く投げるようにしながら、すばやく引く。その引きのタイミングが肝心で、回らないたびに「引きが弱い!」と土屋先生に言われたものだった。
回るようになっても〝引き〟のタイミングが肝心で、ポリバケツの上にゴザ(またはシート)をのせた「床」の上で回すのだが、それがうまく乗るかどうかもその引きのタイミング次第だった。こうして床の上で回せるようになるとやっと勝負ができる。三人次々に「床」の上にベーゴマをのせはじかれて外へ飛び出した方が負けだ。先生のベーゴマはうなりをあげて回っていてぶつかると火花をだしてはじき飛ばした。たいていは先生が勝った。そんな時、先生は僕たちに「昔とった杵柄だよ」と笑いながらおっしゃった。若さが光っていた。先生に勝つまでは、と暗くなるまで続けたこともあった。中学になってからは、授業が遅い時間になったのでなんとなくやらなくなってしまった。最近では土筆でベーゴマはやられていないらしい。しかし、土筆は、いつまでも生徒が気軽に遊べる、そういうところのある塾であってほしいと僕は思っている。

 今回の大雪。2,3の子どもたちは雪を投げ合ってはいたが、私を含めてかつてのような雪合戦はなかった。子どもが少なくなったということもあるし、雪合戦をする場所もなくなったということもある。残念なことである。

 
[PR]
by tsukushi--juku | 2014-02-25 07:31 | Comments(0)
だが黙ってはいられない
            心が萎えそうだけれど―黙ってはいられない  

 私の情報源は多くは新聞報道だ。それも丹念に読みスクラップしているわけではないから、ごくわずかだということになる。新聞報道だけでも気なることは山ほどあってすべてにコメントする力量もないし、時間もない。「ほんの少し」ということになるが今回も心に引っかかったことについて書いてみたい。
 2月20日朝日新聞に米紙ウォールストリート・ジャーナル電子版に掲載されているという安倍首相の経済ブレーン・本田悦朗内閣官房参与のインタビューを紹介している。本田氏は、太平洋戦争末期に米艦に体当たりした神風特攻隊について「日本の平和と繁栄は彼らの犠牲の上にある。だから安倍首相は靖国へ行かなければならなかったのだ」と語り、さらに、第2次大戦中の神風特攻隊の自己犠牲について語りながら涙ぐんだと説明。「日本の首相が靖国参拝を避けている限り、国際社会での日本の立場は非常に弱い…我々は重荷を背負った日本を見たくはない。自立した国としての日本を見たい」と語ったという。そしてさらに「本田氏はアベノミクスの背後にナショナリスト的な目標があることを隠そうとしない。日本が力強い経済を必要としているのは、賃金上昇と生活向上のほかに、より強力な軍隊を持って中国に対峙できるようにするためだとも語った」と伝えているようだ。
 何と言う歴史認識か!新憲法下、戦後政治・戦後社会がきっぱりと放棄した、戦前の軍国主義下の価値観・歴史認識がまるで亡霊のように取りついているとしか言いようがない。
 また同じ朝日新聞は安倍首相の盟友、衛藤首相補佐官の動画サイトでの発言についても紹介しているが、本田内閣官房参与にしても、衛藤補佐官にしてもさらに昨年の秋靖国神社秋季例大祭に参列した100名を超える自民党を中心にした国会議員にしても、安倍首相と同じ歴史観に立ち、価値観を共有する点では横並びだ。しかも安倍首相の下、これらの勢力が勢いづいて安倍政権の大暴走を支えている。
 私は土筆通信1260号(1月30日)で、「権力にとって、マスコミ報道と教育を操作することは欠かすことのできないこと」と書いた。最近、NHK会長籾井氏の発言だけでなく、経営委員の百田氏、長谷川氏の発言が大きな問題になっている。
 二人の語録を列挙しておく。

 百田語録

*もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。(ツイッター)*南京三十万人大虐殺はねつ造によるもの。(ツイッター)*東京裁判ははっきり言ってしまえば『裁判』に名を借りた『日本人の処刑』である。捕虜を処刑するのに、形だけの裁判を開いたようなもの」(ツイッター)また百田氏は都知事選の田母神候補応援演説で「南京大虐殺はなかった」「アジア侵略は大ウソ」他候補は「人間のクズ」などと発言していたことも大問題になっている。

 長谷川語録

*「日本国憲法を永久に存続させたら大変なことになる。こういうものは永久に廃止するという議論をすべき」(12年5月15日チャンネルAJER)*野村秋介(朝日新聞社東京本社に乗り込み『朝日と刺し違える』と叫び、拳銃自殺した右翼団体幹部)は神にその死をささげたのである…彼がそこに呼び出したのは、日本の神々の遠い子孫であられると同時に、自らも現御神(あきつみかみ)であられる天皇陛下であった。そしてその時、たとえその一瞬のことであれ我が国の今上陛下(*終戦時の天皇)は(人間宣言が何と言おうと、日本国憲法が何と言おうと、)再び現御神となられたのである。(野村秋介氏への追悼文)*「日本の国柄というものは、本来、天皇のために命をささげる、そういう国体」(2013年11月25日)
 何と言う時代錯誤か!
 だがこの二人は安倍首相が送り込んだと言われるNHK経営委員だ。

 安倍政権の大暴走はほとんどブレーキの効かないまでに進んでいる。だがその安倍政権、いまだに高い支持率に居座っている。まだ、アベノミクスに期待をしているのだろうか。その先がどこに向かうのか…私の心は萎えてしまいそうだ。それでも黙っているわけにはいかないのだ。
 4月から消費税は8%になる。社会保障、社会福祉に回るどころか社会保障、福祉は一層悪くなっていく。どんなきれい事を並べようと、現実は生活をますます圧迫していくのだ。「庶民の生活にも子どもたちの未来にも禍根を残さないために、一体おれに何ができるか」80歳を目前にして自らに問う日々だ。
[PR]
by tsukushi--juku | 2014-02-20 15:59 | Comments(0)
足跡―心の財産
 足跡―心の財産

2014年2月11日、私が若い頃勤務していたII診療所(現・Iクリニック)60周年の集いに出席した。I診療所はI病院を経て現在のIクリニックになったのだが、60年の歴史を刻んだのだ。私が勤務したのは15周年を迎えた頃の3年間だった。当時、私は32歳。日本民主青年同盟兵庫委員会の専従だったが、要請されて兵庫県会議員に立候補、選挙戦を戦って次点で落選。その後、神戸市議会議員選挙予定候補者となって、I診療所に事務長として勤務したのだった。
 その頃の私は健康そのもの、病院などほとんどかかったこともなく、医療のことなど全く知らなかった。右も左もわからない「借り物事務長」だったのだから迷惑をかけることの方が多かったと思う。在任中、I診療所は15周年を迎え、記念文集を発行したが、その文集に私の文章「昼となく夜となく―I診療所の一日」が載っている。その文章の冒頭に書いた拙い詩だけ引用しておく。

  15年の歳月は決して短くはない/ましてその歩みが苦難の連続であっただけに/
  厳しい労働と貧しさの中で健康をむしばまれた人々をしっかりと受け止めて夜となく昼となく続けられた診療の日々/心と心のふれあいが/断つことのできない信頼となって/支えあい支えあい/ここに15年の年輪を刻む/
  わたしらのI診療所よ/さらに深くさらに広く根を張れ/吹き荒れる嵐に立ち向かうために/
  あるものは6人の子どもを育てるために/生活の重みに耐えながら厳しい労働に明け暮れた/あるものはわずか4人の家族を支えるために/乏しい主人の給料に内職を余儀なくされ深夜までゴム靴を貼った/またあるものは日本軍国主義が朝鮮を支配下に置いた時/力づくで引っ張ってこられ/差別と屈辱の中で長い年月その額に苦悩のしわをきざんだ/
  肝硬変 腎炎 リュウマチ…さまざまな病名を背負って/今、診療所の待合室を埋める/
  患者という共通の名で呼ばれても/そこには厳しい労働と貧困と怒りと悲しみの歴史がある/ぼくら/虐げられ 健康をむしばまれた人々の側に立つ/
  ぼくら 働くものの診療所、I診療所従業員/働く者への愛情と連帯を込めて/圧制者に怒りの眼を据える/民主医療機関の灯を高く高く掲げて/

あれから45年以上の歳月が流れた。わずか3年間の勤務。私はまたもや突然の要請で退職し、上京した。国会議員秘書としての仕事に就いたのだ。短い間のI診療所勤務だった。
  そのIクリニックから「60周年記念の集い」の案内状をいただいた時、私はなんのためらいもなく「出席」の返事を送った。万難を排してでも出席したかった。迷惑ばかりかけたW先生や、苦楽を共にし、お世話になった仲間たちに会いたかった。わずかばかりの私自身の足跡を確認したかった。
  亡くなった仲間たちもいた。病気で来られなかった仲間たちもいた。だがW先生初め何人もの仲間たちに会った。名前も思い出せない地域の方たち、私が県会議員選挙を戦った折共に活動したという方、たくさんの方たちから声をかけられた。ここにも確かに私の足跡があった。わずかばかりの足跡だったが、抱き合わんばかりに歓迎してくれた仲間たち、しっかりと握手で迎えてくれた仲間たち、ここでつながった人たちもまた、かけがえのない私の心の財産なのだ。
 
  ちなみにもう一つ加えておこう。私が、東京から神戸に行ったのは教師としての職に就くためだった。高校(付属中学を含む〉教師生活6年間、この折も強い要請があって退職、民主青年同盟兵庫県委員会の専従になったのだが、その教師生活時代の同僚2人と会食したこと、当時中学2年生の一年間、国語を教えただけだった2人の教え子も会いに来てくれて、三宮駅近くの喫茶店で数時間談笑もした。ここにもまた私の足跡は残っていた。2泊3日の神戸は心を膨らませてくれた。いい旅になった。
  
  間もなく私は80歳になる。今では限界集落になってしまった山奥の少年期の幼友達、中学、高校時代を共に過ごした友達、大学時代の友人。それぞれ、今もなお時には会い、時には土筆通信や文通でつながる沢山の仲間たち。みんなみんな心の財産だ。
  塾の教え子、塾を開いてから様々な形でつながっている人達、趣味の卓球仲間、歩いてきた80年の人生の中で、つながったたくさんの人々。心と心をしっかりと紡ぎながら、さらに明日に向かって歩き続けたいと思う。       (2月13日)
  今回の土筆通信はここで終わるつもりでいた。14日朝、寝覚めて布団の中でつらつら考えた。「待てよ、昨日書いた文章は、後ろばかり見て書いたようだ。足跡は後ろにばかりついて回るのではない。前に向かって刻みつけていく足跡だってある」と。
今、私たちの前には茨の大地が続いているが、道は切り拓かなければならない。新しい足跡を付け続けなければならないのだ。沢山の人が踏み固めた足跡が多ければ多いほど、明日への道は拓ける。私の心の財産もその後にふくらんでいくに違いない。サムエル・ウルマンの詩「青春」の中に次のような詩句がある。書き留めておきたい。

青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
時には、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。

   (土筆通信1262号の一部)
[PR]
by tsukushi--juku | 2014-02-17 20:33 | Comments(0)