土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

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体罰・暴力にふれて
  再び暴力・体罰問題にふれて
過日、卓球仲間のKさんからメールをいただいた。卓球でお会いした時、図書館でぼくの書いた本を「2冊読んだ」という話をしていたので、お礼のメールを送ったが、それへの返信だった。
「…土屋さんの本を図書館で見つけましたので読ませていただきました。『心を育み心をつむぐ』では土筆塾の子どもたちの成長の記録と、土屋さんの足跡を拝見しました。『生きる力と優しさと』は土屋さんの教育に対する情熱が伝わってきます。
 今、教育界では体罰という暴力が蔓延しています。土屋さんの教育理念を教えてあげたいものです。土筆通信を拝見していますと、今でも教育に対するバイタリティ―が変わっていないことを羨ましく思います…」とあった。身に余るお言葉だが、こうしたメールをいただくのは嬉しいこと。『心を育み心をつむぐ』を発行したのは1993年、2冊目の発行だった。4冊目の『生きる力と優しさと』を発行したのは2001年、その後小冊子を4冊発行したがこれらは非売品で書店にはでていない。拙著が図書館に置かれているとは確認していなかったが、いずれにしてももうずいぶん前のこと。今頃読んでいただけたと思うとちょっとした驚きだった。まして『心を育み心をつむぐ』は、もう20年も前になる。自由の森学園初代学園長、遠藤豊さんに推薦文を頂いた本だ。現在の塾生、保護者にとっては目にふれることもない「大昔」みたいなものだ。当時、私はどんなことを書いていたのだろうか。
 メールを下さったKさんは「今、教育界では体罰という暴力が蔓延しています」と書いているが、『心を育み…』を書いたころ、やはり教師の暴力体罰が頻繁に繰り返されていた。「偏差値教育」「管理主義教育」が子どもたちの上にのしかかっていた。今取りざたされている暴力、体罰は特に運動部の部活が中心だが、いずれも競争と成績主義が幅を利かせているという点では共通している。運動関係だけでなく、今また成績至上主義、競争万能主義が教育界に幅を利かせようとしてきている時、運動部部活だけでなく教育全体の問題として、改めて「暴力・体罰」について考えてみることが求められているのではないか。
 『心を育み…』の中で暴力体罰について書いた部分を、抜粋して再録してみたい。
(*・子どもの作文はいくつか紹介しているが紙面の関係で省く。)

   体罰は繰り返し問題にしなければならない
中学二年のBくんがこんな作文を書いた。

 水曜日の数学の時間、授業が終わって礼をする時、先生がOO君に
 「ちゃんと宿題してこいよ」
と、いやみたらしく言った。OO君は××君に、
「誰もやってこねえなんて言ってねえよな」
と言った。
 先生がいきなりOO君の前へ来てどなりつけた。その時××君が少し笑ったため、先生にえりをつかまれ、首をつかまれた。××君のボタンが取れた。先生は二人に「ノートを持って後でオレんとこに来い」といった。
 OO君と××君は言われた通り先生の所へ行った。先生は二人を印刷室に連れて行き、OO君をドアやロッカーにつきとばして、なぐった。
 この先生は授業中でも、笑ったりしゃべったりするとすぐ怒る。もう、こんな先生はすぐやめてほしい。

別の学校のI君はまた次のような作文を書いている。

  理科の教師(中2)

 一年の時もそうだったが、理科と国語の教科はいわゆる「こわい」先生なのでだいたい静かに勉強しているが、理科の実験の時などはいつもよりうるさい。その分怒られる可能性も増える。この理科の先生の口ぐせが「バカヤロー」なので、怒られる時はいつも「うっせーんだよ、バカヤロー」と言われる。怒られる者も、クラスで嫌われている生徒が怒られやすいみたいで、つまらないことでも、何かいやみっぽく注意する。ぼくは先生がそういう生徒だけ特別扱いしていると思う。この先生はバレー部の顧問をしていて、熱心にやっているみたいだけれど、時々、部員をひっぱたいたり、けとばしたりしているみたいだ。実際見たわけではないがこれは99パーセント事実だ。というのは、だいぶ前になるが、何かの集まりの時にその先生が生徒をけっとばして注意したのを見たからだ。ぼくはもちろん体罰は嫌いだからあまりいい気持ちはしなかった。この先生は、いろいろな場で「口で言って分からない奴は体罰もやむを得ない」みたいなことを言っているので、ちょっと危ない先生だ、とぼくは思う。そんなこんなの理由で、ぼくはこの先生のことはあまり好きではない。  

 私は、こうした子どもたちの作文を読んでいると正直胸が痛む。もちろんこんな先生がそう多いわけではあるまい。だがたとえ少数でもこうした体罰教師が存在し、「言いたいことは山ほどあるが、言えばほほにあざを作るようなものだから、絶対に言う気にならない。(*生徒の作文から)と子どもに言わせる現実があるとしたら、それはその教師のみならず、教師全体の責任ではないか。子どもたちはこうした中で「おかしいことをおかしいと言えない」「正しいことを正しいと言えない」ようにさせられているとしたら、それは教育にとって決して軽いことではない。
 学校は、ただ与えられた知識を覚えるだけの場ではない。人間の尊厳も、また人間尊重も学び、正しいことを正しい、間違っていることを間違っていると主張できる自由や民主主義の精神を学び、それらが保障される場でなければならない。
 暴力・体罰を、その大小を問わず指導方法の一つとして考えている教師がかなりいるらしいことは、新聞紙上でも目にするが、それが『教育的効果』をあげているかどうかということでは否定的にならざるを得まい。そもそも「教育的効果」などと、教育を単なるその場しのぎのテクニックにしてしまうところに、私は大きな問題を感じる。体罰を武器にした「教育的効果」などというものは、生徒を体罰で抑えつけ従わせる「管理的効果」でしかない。教師という権威・権力で子どもを管理する、それだけのことではないか。こうした「指導」で、教師と子どもたちの間に信頼関係が生まれるはずがない。こうした関係の中から、子どもたちの学ぶ意欲が育つだろうか。子どもたちの人間としての豊かさが育つだろうか。
 教師はよく「熱心さのあまり」ということを口にする。こうした「熱心さ」は逆に子どもたちをゆがめる方向にこそ作用している、と言われても仕方がない。いずれにしても暴力・体罰は許されることではない。繰り返し問題にしなければならない。(『心を育み心をつむぐ』103ページより)

 現在に当てはまるかどうかわからない。それをあえて再録したのは、体罰問題はいじめの問題とも根っこを同じくし、それは再び大きな社会問題としても広がっていると感じるからだ。また、新聞報道によれば,安倍首相肝いりで進められている『教育再生実行会議』なるものが、いじめ・体罰問題に事寄せて道徳教育教科化を提言し、国家や政府の特定の価値観を上から押し付けようとする方向が強まってきていることに危険を感じるからだ。一方では学力向上にことよせて成績主義、競争主義が強まり、現場の教師たちは、子どもと向き合うことさへ困難なほどの多すぎる仕事に追い回され、子どもと教師の信頼関係を土台にした、「子どもの成長・発達を保障し命と人権が何よりも尊重される教育」とは程遠い『教育再生』に向かうのではないかと危惧する事態が進行しつつあるように思われるからだ。
 こうしたことも含めて、教育について考える機会としたい。
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by tsukushi--juku | 2013-02-18 21:20 | Comments(0)
文章を書くこと
              文章を書くということ

 文章(作文)を書く子どもが少なくなっている。塾全体の子どもの数が少なくなっているのだから当然ということもあるが、残念なことだ。そんなこともあって土筆通信の原稿が常に不足していて土筆通信が「面白くない」と思われているのではないだろうか。子どもたちの作文が減ればその分ぼくの書くものが多くなる。これがつまらないということになるのだろう。
 先日、久しぶりに教育ジャーナリストの矢倉さんといっぱい飲んだ。その折、土筆通信No,1221号の「日記風土筆塾の断片」の記事のようなものも面白い旨、指摘された。子どもたちの塾での日常を書くのもいいのかもしれないが、そうそう、記事になるようなことがあるわけでもない。「大人の文章教室をやって」などという声もないわけではないが、そんな文章指導ができるとも思わない。
 と言っても文章を書くことは大事なことだと思っている。子どもたちが作文を書く機会は何としても確保したい。現在作文を書いている子が、どの子も「文章がうまくなった」と言えないかもしれないが、時々いただく土筆通信読者から「子どもたちの作文を読みながら、自分の思うことをありのままに表現している文章を読んでいると、こんなに素直に書けるものかなと感心してしながら読ませてもらっています」などという手紙が届くと、うれしくなる。
 ところで小学4年生の頃から「作文」を書き始め高校卒業まで文章を書き続けていた、卒業生Mさんが、高校1年の時書いた文章を紹介しながら、私は「文章を書くことの大切さ」について書いたことがあった。土筆通信にも載せたから読んでくださって方もあると思うが、もう一度再録してみたい。

      「文章を書く」ということ 
 
     自分と向き合う時   高Ⅰ・ M

 土筆塾の文章の授業は、私にとってとても大切な時間である。週に一回、一時間だけだがこのペースがちょうどいいのかもしれない。一週間を振り返って、起こった出来事を思い出す。それは自分と向き合う時間に他ならない。この時間が、私の、ものを考える力や、それを文章として表現する力を育てている。
 私にとっての文章とは、自分の気持ちや記憶を整理し、文字と言う目に見える形で記録する大切な手段である。書く題材は何でもいい。そのとき感じた気持ちや、見た風景など、ちょっとしたことでもいいのだ。
 だが、どうして私はこんなにも「書きたい」と思うのだろうか。今までその衝動の理由がわからなかった。疑問すら持たず、ただ書きたいままに自由に文章を書いていた。最近になってわたしをつき動かすその衝動の理由が、なんとなくわかった気がする。
 私が文章を書くのは「忘れたくないから」だ。人間の脳は機械のように完全な状態で記憶をとどめておく事はできない。時の流れとともに記憶は薄れて抜け落ちていく。だから些細な事でも文章と言う形にして残しておきたいと思う。
 私にとっての宝物はかけがえのない「今までの記憶」。体験した出来事やそのときに感じた気持ちこそが宝物なのだ。そして、その宝物を形にして書き表していく。
 こうしてできたのが日記である。毎日細々と書き続けているその日記には、私の記憶が詰まっている。雑文ではあるが読み返してみるとその当時のことがわかって面白い。
 この日記と同じく土筆塾で書く作文も私の成長の記録だ。毎日欠かさず文章を書き綴って、週に一回土筆塾できちんとした形の文章を書く。こうした、自分と向き合う時間はこれから先も作っていきたい。友達とゲームをしたりするのもいいが、たまには静かに一人で過ごして、自分を見つめる時間を作るべきだと思っている。この時間は心も落ち着くし、物事を深く考えられるから好きだ。何よりもそれが自分の成長につながると思っている。

 Mさんの作文を読みながら、私はかつての卒業生たちが書いた作文を思い出した。1993年当時中学2年生だったI君が次のように書いている。

 「……その点、文章教室はテーマが決められていないし自由に書けるのでいい。時には書くことがなくて悩むこともあるけれど、それはそれで大切なことだと思う。書くことをさがす事は一週間の出来事を思い返すということになるが、そういうことをしていると、反省や物事についての感想が生まれる。それを分かりやすい文章にしようと心がける。意見を書くにも、物事についての自分の考えをまとめなければいけないし、うまく説明しなければならない。こういうことはとても大切な事だけれど、普段の生活の中ではなかなかできない。文章教室と言う時間があるからできるのだ。
 僕にとって、文章教室とは、文章の腕をみがくところであると同時に、一週間の反省や物事に対する意見をもつことによって、人間をみがくところでもあるのだ……。」

 また、中学を卒業する時書き残したA君の作文も紹介しておく。

 「……僕らにとって、文章を書くということがどれほど重要な事であったか、僕は最近やっと気付いた。文章を書くことで最も楽しいのは書いている間だ。後で読み返すとなんだかわけの分からないものや、赤面するようなもの(僕はそれがほとんどだ)も、書いている間はなんとなく興奮していて実に楽しいのだ。それはやっぱり自分の手で意見をまとめ作品を創り上げていくという「創る」作業が面白いのだと思う。それに文章を書いていると、自分の言いたいこと、伝えたい事がハッキリとまとまってくるのも面白い。自分で書くことによって自分と言うものがより確かになるような気がする。これも重要なことの一つだ。
 大体、今の小・中学校に、自分で文章を書く機会がどれだけあるだろうか。そう思うと僕はいまさらながらボーッと過ごしてしまったことがとてももったいなく感じられる。……
 作文・文章をやっていて励みになったことで忘れられないのは、土屋先生の存在である。先生の「ホームラン」の印がほしくてせっせと文を書いた。先生の評価は特に文章そのものをどうこう言うようなものではなかったが、僕の文章も昔に比べたら随分読みやすくなった。昔のを読むとその頃の自分の状態がよくわかって面白い。大体は何だこれはとおもうようなことばかりだ。
 作文・文章教室は、七年間、僕によい意味での影響を、大変与えてきた。……」

 先のMさんの作文も含めて、これらの作文は、「作文を書く」ことの本質を言い当てているようで、嬉しくなる。私が子どもたちに作文を書き続けさせた意味も、ここにあったといっていい。
実はここに登場したI君やA君の学年の前までは、土筆塾の作文は小学生までで、中学になると作文の授業はなかった。小学三年生の頃から作文を書き続けてきたA君たちの学年が、「中学になっても作文をやりたい」と言い出したのだ。「中学になると英語、数学、国語、とあり、時間的にも夜遅くまでとなる。それに作文を加えると週4回ということになるがそれでもいいか」という私の問いに、「いい」というのだ。そこでその年から中学生の作文を「文章教室」と言う事で出発させたのだった。今考えるとこれは大変よかったと思っている。
最近、中学三年生や、Mさんなどの作文が随分よくなったと思う。それは文章技術の上達と言う事もあるが「内面的成長」が見られると言う事が大きいのだ。文章の上達は、その子の人間的成長と深く結びついている。書くことによって自分を成長させる。自分の人間的成長が文章を一層上達させる。車の両輪みたいなものだ。                                                                 (以上)

 文章(作文)を書く、それは学校の成績にすぐに反映するということではない。まして受験などにすぐに結びつくものでもないが、間違いなく子どもの内面的成長、生きる力に結びつくものだと私は思っている。
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by tsukushi--juku | 2013-02-07 18:46 | Comments(0)
日々の断片
 日々の断片・思いつくままに
 2013年度政府予算案が発表されて、自民党安倍政権の方向が打ち出された。私などは政策全般について論じる力量はないから、ぼやきにも似た感想程度でこれからの推移を見ていくしかない。
一方で消費税増税を推し進め「景気が悪くては増税できない」と「経済再生を掲げて大型公共事業の拡大と大企業支援に乗り出した。生活保護は削減(これは国民生活全般の水準を引き下げることにつながっている。生活保護だけの問題ではあるまい)自衛隊費の大幅増大などの大見出しが新聞紙上に踊っている。
 「公共事業増」ゼネコンは大喜び、財界の城、「経団連」の米倉会長は「成長と富の創出の好循環を生み出す方向に転換されたことを歓迎する」という談話まで発表した。だが、「富の創出」は庶民の富ではない。財界の富だ。景気回復のおこぼれは国民にも及ぶなどという論理は小泉政権下盛んに言われた。結果はどうだ。260兆円を超す内部留保(ため込んだ儲け)は大企業を潤したが、リストラ、派遣労働の恒常化、貧富の差、格差社会の出現と痛みはすべて国民に押し付けられた。今回の安倍政権の方向はこれに輪をかけ、一層進行させるだろう。尖閣列島問題、北朝鮮の核実験と大騒ぎして外交努力をいい加減に、自衛隊の強化に突き進む。沖縄はオスプレイ配備も辺野古への基地建設も沖縄の相違を無視してアメリカのご機嫌伺いだ。原発再稼働まで見え見えだ。あれもこれもきりがない悪政だ。ぼやきにも似た感想しか書かないが、子どもたち、若者の未来は暗くなる一方だ。

 こんなぼやきはやめよう。日々の土筆塾、そして私の日記風断片を書くことにする。
*X月X日。3年生のM子が「先生、落書き書いてもいい?」という。塾の教室の板壁は落書きだらけだ。いろいろな落書きがある。「みほとみさとでーす。中3までいまーす。K子は中3までいると言ったのに途中でやめた。ウソつき!(笑い)「武井愛子、サイコー、マジ大好き 、超大好き」「ももかは信頼できる人 」こんな調子だ。そんな落書きを見てM子も書きたくなったようだ。私は落書きを歓迎しているわけではないが、禁止もしていない。落書きは子どももメッセージだからだ。私はM子に「書いてもいいよ」と言った。「後で見てね」M子はそう言って壁の隅の方に何か書いていた。帰ったあとで見ると「先生へ、算数教えてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。」とあった。
*X月X日。もう何年か音沙汰のなかった学生時代の友人から、突然電話が来た。「君は偉いよ。信念曲げないで今も頑張っている。『子らの未来と日本の未来のために』読んだ。りっぱな本だよ、感心した。本代兼ねて1000円送るよ」なんていきなり言う。そういえば『子らの未来と…』を発行した時送ったんだと思いだした。しばらくおしゃべりして電話を切った。
同じ日だ。通信読者で、ところが、しばらく送るのが滞っていた都内在住のKさんから手紙。障害者の作業所を立ち上げて15年、現役でがんばっている。沢山の切手が同封されていた。読者の中にはこうして切手を送ってくれる方も結構いて大変助かっているのだ。ありがたいこと。
 
*X月X日。下田から電話二つ。土筆通信新年1号で紹介した書家の山田池鶴子さんと金谷旅館の若女将ローマン派の画家、今井伊豆美さんから。土筆通信を送ったがそのお礼を兼ねた電話。
この日、やはり学生時代の仲間Hさんから電話。前日メールがあったばかりだ。保育園を経営しているが、かたわら地域の「9条の会」や、「自然観察指導員」として活動をつづけている。下田の高校の同期生(元中学教師)からも手紙があった。
*X月X日。水曜日に行っている卓球クラブに、新しく中国出身の女性が加わった。私はこのクラブの何人かいるコーチの一人だが、たまたま私のところに回ってきてお相手をした。終わった後、持っていた名刺を自己紹介代わりにわたしたが、彼女からも名刺をいただいた。「通訳・中国語」とあった。その夜、思いがけなく彼女からメールが来た。  
土屋先生、Nです。今日は卓球を教えていただきまして本当にありがとうございました!私みたいな全然できない人にやさしく、親切に教えていただき、本当に心から感謝しております。
 早く先生みたいに上手になりたいですね。これからもよろしくお願い申し上げます。
 さっそくネットで先生が書いた本を調べさせていただきました。
どれもすばらしい。なのでこれから機会があれば読もうと思っております。
私も読書が好きです。今、稲盛和夫先生が書いた「生き方」という本を
買って読んでいます。
 それではお会いできる日を楽しみにしています。

いろいろなところでいろいろな人とつながって生きる。これは私の楽しみでもあり、活力でもある。
 わたしは卓球を週4回やっている。体力維持を兼ねる、私の好きなスポーツだ。「西堀・新堀コミュニティセンタ‐」、「清瀬コミュニティプラザ」、「下宿市民体育館」、それに「東久留米スポーツセンター」だ。 先日、西堀・新堀コミセンに卓球に行った折、突然「土屋先生」と声をかけられた。もう5・6年も前になろうか、一年ほど塾に通ってくれたY君のお母さんだ。「下の子が塾に行きたいと言い出した。塾と言えば土筆塾だ。兄もそういうし、親としてもそう思っているので、そのうち伺います」という。土筆塾は一切宣伝していないから、すべて口コミだ。だから兄妹で来てくれる子も多い。うれしいことだ。
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by tsukushi--juku | 2013-02-06 17:15 | Comments(0)