土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

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有機農業を始めたIさん
 有機農業を始めたIさん

 土筆通信1182号で少しふれたが、埼玉県小川町で農業を始めているIさんから、手紙が届いた。今回は彼女にことについて書いてみたい。
 まず、手紙を紹介しよう。

 畑に植えた梅の木の蕾がずいぶんとふくらんできました。少しずつ春の足音が聞こえてきますね。
 お手紙ありがとうございました。また、土筆通信に年賀状を載せていただき,嬉しく思います。
 土屋先生も小川町にご縁があったのですね。(*小川町には学生時代の友人がいて、土筆塾がまだ始まって間がないころ、きよせ子ども劇場と一緒に休耕田を借りて米作りに取り組み田植えや稲刈りに通った)小川町下里には有機農業で有名な金子美登さんがいます。私が小川町に引っ越すことを決意したのも金子さんの霜里農場勉強会に参加したことがきっかけです。
 まちづくりコンサルタントに就職して以来、たくさんの市民会議や行政の庁内会議に携わってきました。どんな地域にも共通する環境問題、過疎化、コミュニティの希薄化……。地方に行けば行くほど、それは深刻化しており、行政やコンサルタントどんなにすばらしい施策を用意してもどこか机上の空論のように思えて,むなしさすら感じていました。そんな時に金子美登さんに出会いました。自給的な農業を基本とする金子さんの農場は、地域の人と人をつなぎ、美しい風景を生み出し、小さなコミニュティを育む“農 ”でした。会社のデスクで頭を抱えていたことがスッと消え、答えはここにある!と何か熱いものが私の中に生まれました。
 それからというもの、彼を小川町の農業体験に誘い、いろいろな街のイベントに参加し、一年もたたないうちに、小川町に引っ越していました。東京育ちの彼も今ではすっかり農家らしくなってきました。
 この街には有機農業を志して移り住む若者も沢山いますので、仲間もだんだん増えてきました。決してお金持ちにはならないと思いますが、困った時に助け合い、分かち合える仲間とともに、穏やかに暮らしていけるこの環境に心から感謝する日々です。
 今年の五月に、小川町の「吉田家住宅」という文化財(古民家)を借りて、結婚式をします。地域の中でお金が回るよう、地域の資産や資源を使った小さなパーティをするつもりです。また、畑や結婚式の写真が撮れたらお送りしますね。
 土筆通信、これからも続けてください。子どもたちの作文とっても面白いです。
 それではまた。お体大事にしてください。

 長くなったが全文を紹介した。

 Iさんが土筆塾に通っていたのは小学校の間。遠いところからバスで通っていた。中学になると塾の時間帯も遅くなり、来られなくなったが、中学2年の時、学校の様子の報告や、手紙を送ってくれたことがあった。彼女の記録は塾にはいくつも残っている。そのいくつかを紹介してみたい。

 五年生の時に書いた作文と、私がその後ろにつけたコメントだ。

  「国語の授業で詩を書いた。どんなテーマでもいいことになっている。でも先生の話を聞いて私はちょっと不思議に思った。
 詩を書くことを職業にしている星野とみひろさんや、谷川俊太郎さんは、普段の生活の中で自然に思ったことをそのままかいている。わざと音を入れたり、体言止めにしたりはしまい。だけど学校の授業となれば、題材集めをわざわざ宿題にしたりする。それに、おと、体言止め、比ゆ、擬人などを入れたか確認しなければならない。そして先生に見てもらい変なものはなおされるのだ。
 詩というのは、そんな、必死にならなくてもいいと思う。音なんか入れなくてもいい。心や思いはその人が自分で考えた言葉なのだ。直されてはたまらない。
 私自身は詩を書くことが好きだからいいけれど、そうでない子は大変なのだ。
詩の本当のあり方ってわかんないな…。先生の意見教えてください。」

 私はこの子のノートに次のように書いた。
「詩はそれを作る人の心の表現だ。詩を書く人が一番いいと思う表現を作り出していくものだ。音だ、体言止めだ、比喩だ、擬人だなど、それは一つの表現方法で、他人が決めることではないね。自分の心で感じ取ったことを、のびのびと自分の表現で書こう。それが読む人の心を動かすのだ。」
 詩にしても作文にしても、それは書く人の感性の問題、心の問題であって、何か形が決まっていてそれに当てはめなければならないということではない。そういった画一化は感性や心まで管理しようということにつながり、そうした指導は作文嫌いの子を生みだすことにもつながる。
 詩や作文を書く上で大切なことは、子どもが何を感じ何を考えたのか、子どもが心で受け止めた事を、できるだけ素直に表現することではないだろうか。子どもはそのことを通して自らの心を見つめ、、自らの表現を作り出していく。教師に必要なのはそうした子どもの感性、心を大切にし、それを最大限引き出してやることではないだろうか。(『子を思う』51頁より引用)

この彼女、中学二年になって「不登校」になった。そのころ寄せてくれた手紙だ。長いものだから抜粋して紹介する。

 「…学校に行かなくなって、もうすぐ一カ月です。期末テストは受けられないと思いますが、私は休んでいることを悪いこととか、高校受験が…などとは思わないんです。家では最近勉強も始めましたし、大好きな英語はNHK学園のカセットを聞いたりしています。犬の「あんり」も大きくなり、散歩も毎日汗だくで行きます。…
 学校に行っている時はいつも朝早く起きて、一人で泣いて、時間になると制服を着て学校に行きました。どこの学校にも絶対、多少はあるといわれている女子のグループ化、たまたま仲良くなったグループは何だか…。グループの一人がBちゃん。Bちゃんは一番最初にできた友達なのに私の名前を一度も呼んだことがない。苗字さえ呼んでもらえない。ほかのグループはというと、固まりすぎていて入れない。交換日記をしてもその子だけの話題を出されたら、絶対教えてくれない。毎日毎日こんな生活。ついに我慢の限界。大声で泣き、学校に行かなくなった。
 学校に行かなくなったことで、人とのかかわりは減りましたが、無理をして、ストレスをためてまでして作る人間関係は、なにかさみしいです。…。」
 この手紙の抜粋は『普段着の子どもたち』の中の「子どもが傷つくとき」という文章の中で引用したものだが、文章そのものは長くなるから書かない。
学校の体育着を巡って先生方と交渉した時の克明な記録もあるが、長くなるので省く。

彼女の足跡は塾の教室の中にもある。私が『子を思う』を出版した時の出版記念の折、刺繍で作った壁掛けをプレゼントしてくれた。今も多くの子どもたちや通信読者から頂いた飾り物とともに教室に飾られている。
 
 彼女が大学を出てからの事は先の手紙の通りだ。
 彼女の選んだ道、私はもろ手を挙げて賛成したい。自らの道は、自らで切り拓いていくものだ。頑張れ!Iさん。そして結婚おめでとう。


            


 
                      
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by tsukushi--juku | 2012-02-27 13:48 | Comments(0)
子供たちの作文に学ぶ
かつての子どもたちの作文に学ぼう 

      自然のルール
(6年 H・N) 

 ある日、授業中テストをやっていた。
 解けない問題で頭が痛くなり、ひょいと横を見た。メダカの水そうが置いてある。私は目がまあるくなった。メダカじゃなくて水草の方で目が丸くなった。水草のはっぱから、プクプク戸あぶくが出ているのだ。日の光を浴びて、たぶん光合成(?)とかいうことをやっているんだろう。いつも生きているのか死んでいるのか分からないくらい変化のない水草だったのの…。ちゃんと生きていた。りっぱに呼吸している。日の光のせいだったのかもしれないけれど、水草がかがやいて見えた。
 しばらくすると、また別のところからプクプクあぶくが出てきている。すごいなあ、こうやって酸素を作って、メダカがそれを吸うんだね。なんだか教科書でやったのより、ずっと説得力があった。水そうの中でも、ちゃんと、自然を土台にうまくやっている。本当にうまくできている。魚が二酸化炭素、水草が酸素を出して、なんだか二人で助け合っているみたいだね。自然のしくみなんて、そんな簡単なものじゃないのは十分分かっているんだけれど、たぶんこうやってもちつもたれつ…のような感じでやっているんだろうな。

 彼女は、帯広畜産大学を卒業後、獣医になった。沖縄にわたって、獣医師として働いている。

  女性暴行事件と米軍基地
        (中3 T・T)

 沖縄で少女が、三人の米兵に暴行された。しかし、犯人が分かっていながら日本の警察は逮捕できない。
 この事件に対する抗議の声やデモ賀、沖縄を中心として全国に広まった。結局日本の警察が逮捕したのは、基礎された数日前のことである。それまで「日米地位協定」に阻まれ、たいほできなかった。
 そもそも、なぜ現在米軍が日本にいるのだろうか。
 米軍が日本に基地を持ち始めたのは戦争が終わってからである。その後冷戦がはじまり、ソ連の攻撃に備えるという名目で、米軍は日本に居座り続けた。  
 しかし、現在冷戦は終わっており、どこの国も日本を攻撃するような危険はない。それなのに、なぜ米軍は日本に居座り続けるのか。簡単に言うと米軍の負担する金がかからないのである。米軍の費用の多くは日本側が出している。もっとはっきり言えば、在日米軍の、日本国民の上にのしかかっているわけである。このことは別に「地位協定」によってきめられているわけではない。在日米軍の日本負担は、本当は土地(基地)の提供だけである。それなのに現在は土地のほかに、二千数百億円出している。そして先日も新しい協定が結ばれ、さらに三十億円も負担しなければならなくなった。(この費用を「思いやり予算」という)
 日本から金を巻き上げ、その上今度の少女暴行事件のように国民に被害を及ぼしている米軍基地の存在価値が果たしてあるのだろうか。そしてそんな米側に反発もできずにいる日本政府も軟弱だ。このまま米軍の思い通りになっていると、占領時と同じ状況になってしまうのではないか。

 今、沖縄は普天間基地移設を巡って重大な局面に立たされている。T君の作文を読みながら改めて考えてみたいものである。
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by tsukushi--juku | 2012-02-17 22:03 | Comments(0)
松井幹夫先生の死
松井幹夫先生を偲んで 

「しんぶん赤旗」の記事で、松井幹夫先生が亡くなったことを知った。まず、記事をそのまま転載する。
 松井幹夫さん(まついみきお=数学教育研究家、元自由の森学園学園長)4日、死去。84歳。東京高等師範学校卒業。1959年明星学園の教師に。数学教育協議会の中心的メンバーとして活動。83年自由の森学園の設立に尽力し、95~97年同学園学園長。葬儀は近親者で行いました。喪主は妻、まついのりこさん。主な著書「若者たちは学びたがっている」。1949年日本共産党に入党。

 松井幹夫先生にはずいぶんお世話になった。つい先日も、著書「算数たんけん⑩少数のかけ算の秘密」(偕成社刊)を寄贈していただき、送られてきたばかりだった。先生は2回も土筆塾で授業をして下さったし 拙著『子を思う』の出版記念の集いの折はわざわざ来てくださって、ご挨拶もいただいた。80歳を超えているのに大変元気で、全国を飛び歩いて算数・数学教育に大変な情熱を傾けられていた。今年の年賀状で、近況報告をいただき、「上向結腸末期がんと肝臓への転移」で、山梨県の「玉穂ふれあい診療所」に入所さてたことを知らされて、驚き、さっそく手紙を書いたのが最後となった。
 がんが発見されたのが、昨年の10月17日。だがその後も教育活動は続けられ、直後の10月27日、湘南学園小11月15、16日、滋賀県五個小学校で2時間の授業。11月19、20、自由の森学園公開研究に参加。21日に緊急入院。そして手術。だがガン摘出も抗がん剤も適さず、ホスピス「玉穂ふれあい診療所」に入所することになったという。入所しても算数・数学教育への情熱は衰えず、奥さんの、のりこさんと共著で「算数探検シリーズ⑪」の発刊を目指している。近況報告ではこう書かれている。

 すさまじいまでの情熱と生きざまに圧倒されながら、私も生涯をかけて子らと日本の未来のために生きたい、と思う。私には先生のような力量はない。だが、たとえ小さな力でも、これでよかったのだと思える人生を送りたい。松井先生の訃報を前に、改めてそう思う。
 
 松井先生を偲んで、拙著『子を思う』の出版記念の折にいただいたごあいさつの全文を
掲載させていただく。

 今日はおめでとうございます。
 自由の森学園の学園長を3年やりまして、今年3月退職したわけですが、私はもっと自由に自分自身を楽しみたいと思ったわけです。授業だけはさせてもらっているんですけれど、学園長を辞めまして、講師という身分になりまして、日本のあちこちで授業をさせてもらって歩いています。
 私は小学校の教師、中学校の教師、高校の教師と全部経験しましたので、楽しくわかる算数の授業、こういう授業の在り方があるんじゃないかということで授業をさせてもらって歩いているわけです。
 実は私、自由の森学園を遠藤豊と一緒に作る前まではですね、寺子屋学園という小さな塾の学びの場を、中学生、高校生が中心ですがやっておりました。遠藤豊に誘われて自由の森学園の設立に身を投じたわけですけれど、大きな学校を作るのと、小さな塾を、地域に根ざしてやるのとどっちがいいかということで、本当に悩みました。
 唯、日本には、子どもを偏差値で差別するということを絶対にやらない、中間テストとか期末テストとかをやらない学校というのがないもんですから、一つぐらいそういう学校があって、子どもを真にのびのびさせる学校があってもいいのではないかと考え、学校作りに身を投じました。
 けれども、今日、こちらに来ましてね、土屋さんの日ごろの実践の姿を、皆さんを通して拝見しますと、こんなに地域に根ざして、子を思うことを貫いた教育実践、本当にこれこそ本物だな、というふうに思ったのです。
 今度の本も、私は隅々まで読ませていただきましたけれど、その中で、大雨になってずぶぬれになって塾に駆け込んできた子どもたちを、土屋先生が、自分のありとあらゆる着物ですね、ジャージとか、Tシャツとかそういうものを着せてですね、濡れたものを脱がせて…、そういう作文がありましたね、長いジャージなものだから、ついジャージのひもの所を踏み抜いて切ってしまって、「ごめんね」って書いている。あれを読みまして、学校で教師はここまでね、子どもの心を受け止めて優しく迎えることができているだろうか、と思いまして、土屋さんには負けたなぁと思いました。
 この負けた代わりをお返しするために、私はさっき土屋さんに、自分が一生をかけて、楽しくわかる算数を追求してきた、その算数の、一番エッセンスになるところがあるわけですよ、その授業を何とか土筆塾でさせてくれないかとお願いいたしましたらね、実はそういうことを考えているんだ、いろんな人に月一回ぐらいずつ来ていただいて…
 そういうことを考えているという、これはなかなか競争が激しい(笑い)と思いましたけれど受け入れていただけそうで、楽しみにそういうチャンスが来るのを待っています。
 私ももう70歳を超えましたけれど、おかげさまで体の悪いところは一つもありませんで、全国を飛び歩いて授業をしながら、自由の森の学校でもしている。土屋さんも健康だということでこれからも末長く、こういう本当の教育、日本には本物の教育があまりにも少ないわけですから、こういう、地域で深く根ざして、人と人のつながりを網の目のように作り上げていらっしゃる、それはすごいですよね。これを、ぜひ続けて発展させていただきたい、と心から願います。どうも本日はおめでとうございます。

 人はいずれ人生の幕を引かなければならない。私だってもうそう長くはないだろう。限られた人生を、だれのために何のために生きるか、それはすべての人に突き付けられた課題でもあるのだ。とりわけさまざまな困難に直面し、将来を見通すことの難しい「現代」という時代の中で子らの未来と日本の未来のために、どう生きるのか。その課題を改めて自らに突き付けて、悔いのない人生を送りたいと思う。

              ご冥福をいのりつつ
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by tsukushi--juku | 2012-02-10 11:54 | Comments(0)