土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

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普段着の子どもたち
6月は日本の政治がめまぐるしく動いた。政権与党の数を頼んでの暴挙につぐ暴挙。”数だけが物を言うんだこの国は”といったところ。どう観ても現政権の目指す方向は国民と子℃も達にとってきわめて危険な方向に急速に動いている。もうすぐ参議院選挙。国民の一票に期待するしかない。
前回に引き続き作文を通しての『普段着の子ども達』を書き留めておく。
  地域社会のなかで

    なぜ捨てるのかな?    (5年生)

「また捨ててある」
 カンや紙くずが、いっぱい道に捨ててある。すぐそこにゴミ箱があるのに。そう思いながら、わたしはゴミ箱に捨てる。それからまた歩く。少し歩いただけでもゴミはいっぱい転がっている。またゴミ、まったく!
 すぐそこにゴミ箱があるのに。そう思いまたそれを拾い、ゴミ箱に捨てる。毎日その繰り返しだ。私はゴミ拾いじゃないぞ、と思う。
 でもつい最近までゴミ拾いはしていなかった。この前、おじさんがゴミ拾いをしているのを見て、私もやることにしたのだ。でも本当はやりたくない仕事だ。
 公園の前を通った。子ねこがいた。毛が汚かったから捨てねこだと思った。ねこまで捨てていく。まったく、ねこはゴミと違うぞ!ねこはもちろんゴミも捨ててはいけないんだ!
 今、環境問題があることを知っていながら、こういうことをやるなんて・・・。自分ひとりぐらいいいや、なんて思っている人が多いからこういうゴミ捨ても多くなる。また、ねこだってそうだ。ねこを飼うんなら最後まで責任を持って飼え。一人一人がこういうことはいけないな、と思えば、ゴミ捨てや捨てねこはなくなるとわたしは思う。

いじめを見た     (6年生)

 商店街の自動販売機の前で、高校生たちのいじめを見た。女子高校生が六人。5人対1人。
最初はみんなで話しているのかと思った。だけどだんだん様子が変わってきた。その道を通る人が少なくなると、一人の女の子に五人で話しかける。なんだろう?私とSさんは、様子が変わったことに気づいて、さりげなく近づいてみた。あっ、一人の女の子がいじめられている!
 みんなで、周りを囲んで「おら、おら」とか、「てめぇ」とか言っていた。ある女の子はタバコをすっている。ある子は厚化粧している。本当に高校生?と思ったとき、一人の女の子が言った。「ゴミ箱に顔突っ込め」。
 えっ、まじ?
でもいわれた子は気が弱かったみたいで、すぐ言われたとおりにした。あさったり顔突っ込んだり・・・。周りに大人もいたが、見てみぬ振り。そんなのってある?
いじめている子は笑っていた。
 これで終わりかと思ったら次はジュース。またみんなで囲んで、「てめぇ、ジュース買えよ。」とか、「買わなかったらどうなると思う?」とか・・・。その子はお金を出す。また二、三人よってきてその子たちの分も買っている。もうお金がなさそう。
 いじめをとめたい。とめてやりたい!そう思った。でも六年生二人と高校生五人じゃ話しにならない。大人は見てみぬ振り。
 私とSさんはその場から離れた。いったいこのイジメ、誰が止めるの?本当に私たち、にげてよかったのかな・・・。

    電車の中で    (中学2年)

江古田に行く電車に乗った。向かい合った席に、幼稚園の年長くらいの子と、その母親らしい人が座っていた。女の子はきちっとした服装に手さげカバンを持っていた。
私はその雰囲気から「あっ」と思った。以前、テレビで有名小学校にわが子を入れるために一生懸命な、ある家族を映していた。毎日毎日、幼稚園から帰ると遊ぶ暇もなく塾に通う。子どもは割りと楽しそうだったけれど、親は「面接の時の親の服装も見られる」だとか、そういう話ばかり、ほかの親と話していた。そんな内容のテレビだったがそれをふと思い出したのだ。
案の定、前の席に座っている母親が、子どもに掛け算の九九を言わせたり、算数の文章題を出したりしていた。その女の子は「あとなんこの駅?」とか、「何分いるの?」とか聞いていた。
その親子の降りた駅には、ほかにもたくさんそういう感じの親子がいた。テレビで映し出されていた親は、私立小学校に入れる理由を「立派な人になってほしいから」と言っていたが、この人たちもそうだろうか?
人それぞれ考え方はあると思うけれど、無邪気に塾に通う幼稚園の子どもたちが、なんだかかわいそうに思えた。子どもたちはどのくらいまで自分の状況を知っているのだろうか?きっと、この子たちは小学校高学年になっても、なぜこういう学校に通っているのか疑問を持つこともないだろう、と私は思う。
もし私が、小さいころに親の考えだけでこういう学校に入れられていたとしたら・・・私は嫌だ!

   近くの本屋    (中学2年)

 つい最近、私の家の近くの本屋がつぶれてしまった。その本屋は、近辺に三つの支店があるが、その三つともつぶれてしまった。私の家の近くにはその本屋しかなく、後は駅前にある本屋と駅の向こう側、少し歩いたところにあるが、その本屋がつぶれたことでとても不便になってしまった。
私は、しょっちゅう本屋を利用するので、とても困った。本はよく買うし暇つぶしの時間にはもってこいの場所だったし、待ち合わせにも最適のところだった。私の周りには本屋でマンガをよく買う人が多いので、まさかこの本や、それも私が一番よく利用している本屋が、つぶれるとは思わなかった。
やっぱり、この不況の時代に、例外はないのかもしれない。

   ゴミを拾うおじさん    (6年生)

学校へ行くとき、いつもゴミを拾いながら歩いているおじさんがいる。家の前の道路から、気象衛星センターまでの間でいつも見かけるので、きっと気象衛星センターの人だと思う。
この間、おじさんがゴミ拾いを始める最初の動作を見た。そのおじさんは、カバンから、おもむろにゴミ袋とカンゴミばさみを取り出して、燃えるゴミ燃えないゴミを別々にして拾っている。
私はいつも、そのおじさんを歩きながら追い越すのがとても悪いような気がする。きっと追い越していく人みんながそう思っているに違いない。
朝おじさんを見かけると、いつも心がすっとするけれど、少し胸がチクッとする。私だって勇気があればできることだ。
おじさんの通った後の道はとてもきれいだ。

親         (中学3年)

どうも最近の親はおかしなところがある。それは自分の子どもにOO君とか、OOちゃんなどと「君」「ちゃん」付けして呼ぶことだ。俺の親なんかは、どこの誰と話そうと「君」など付けたことはない。俺はそれでいいと思っている。「君」など付けられては恥ずかしいくらいだ。
また、自分の子どもを叱らない親がいる。
家の近くに中学2年のバスケットボール部に入っている男の子がいるのだが、その子が家でバスケットボールをつく。それが響いてとてもうるさい。夜になってもそれをやっている。それなのにそこの親は注意ひとつしない。その家の父親は中学の先生をしているのだ。どういう家なんだ、とこちらがとまどいを感じる。親が何も言わなければ、その子はそれをいいことだと思ってしまわないか?
子どもにも責任はあるが、怒ったり注意したりしない親も親だ。子どもは親を選べないのだから、もうちょっと、「親なんだぞ」と言うところがほしい。
   
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by tsukushi--juku | 2007-06-27 22:11 | Comments(0)
子どもたちの日常
前回に引き続いて子どもたちの日常を作文を通して紹介します。
     
   家庭で、地域で、学校で

ここに一郎、二郎、三郎、四郎の四人兄弟がいる。いずれも塾生だ。それぞれが書く兄弟の姿や、家庭での生活が面白い。

 お兄ちゃんのこと    (3年生・四郎)

 二郎お兄ちゃんは、いつもかくれてゲームをしている。ゲームをしていい日は日曜日だけなのに、父ちゃんと、父ちゃんのねぇちゃんがいない日なら、学校から帰ってから何時間もゲームをしている。
ぼくが、学童から早く帰ってきて、お兄ちゃんに「ゲームやらせて」と言うと「ちょっと待ってて、まだぜんぜんやっていないから」と、ウソをつく。
ぼくはそんな兄ちゃんがきらいだ。

   わがまま四郎     (二郎・中学2年生)

 最近、四郎はわんぱく坊主になった。人間は不思議なものだ。保育園のころはいじめられていたのに、小学校に入ったらいじめ返している。最近では5年生も泣かしたらしい。早くもほかの子の親から危険度Aクラスとして、一目置かれる存在になっている。
 四郎はわんぱくのほかにわがままと言う特性も持っている。「いいの!チャンネルはこのままなの!」とテレビを独占する。ぼくは怒るが、おばぁちゃん、お父さんほか大人はそろって甘やかす。
 このままでは四郎は、高校生ぐらいになると、何をやらかすか心配だ。四郎のわがままを、今からでも直してやる!

   四郎、ついに不良     (二郎・中学2年生)

 最近、四郎は荒れている。兄貴、親、家族友達、だれかれに関係なく
「あぁん、けんか売ってんのかぁ?このやろう!」
と言う。人が来ても挨拶もしない。テレビのチャンネルを変えると、殴るけるの暴力を振るう。おじいちゃんに
「死ね、このボケ爺!」などと言うし、我が家の台風の目だ。しかも自称不良を名乗っている、とんでもないやつだ。
 四郎が行儀よくするのは、お年玉をもらうときだけだ。まったくわががままにもほどがある。

    家のなまけ者     (三郎・5年生)

 ぼくの家にはなまけ者がいる。なまけ者、おなじみの二郎兄ちゃんだ。はっきり言って、二郎兄ちゃんは弟と同じ程度の仕事をやっている。今月、自分の仕事(牛小屋の仕事)をした回数はなんと一回だ。
 ぼくは、米とぎを今月十二回やって、一郎兄ちゃんは、牛小屋の手伝いをやりすぎて何回かわからないほどだ。ぼくははげしく怒っている。二郎兄ちゃんはたったそれだけの仕事で、ばぁちゃんからお小遣いを千円ももらっている。ぼくが、
「二郎兄ちゃん、仕事してよ!」
と強く言うと、話題をそらしてほかの話へと移り、ごまかされうまく交わされる。
 二郎兄ちゃんの戦術はまだある。それは、かぁちゃんに、「布団を敷いて」といわれたら、まずじゃんけんをして、片付けと布団を敷く人を分ける。(ぼくはいつも片づけだ)二郎兄ちゃんは布団敷きなのに何にもしないでかぁちゃんがやってくれるのを待つのだ。これには驚いた。
 二郎兄ちゃんは頭がいい。いろんな手を使ってこれからも仕事をしないだろう。
 ぼくはおばぁちゃんに、お小遣いのことを抗議するつもりだ。

    牛舎の手伝い     (一郎・中学二年生)

 最近家のおかぁさんは忙しいらしい。何でも新しい資格を取るために、毎日勉強会に行かなくてはいけないらしいのだ。これでは牛舎の仕事が出来ない。と言うことで、ぼくと二郎が牛舎を手伝うことになった。
 前から手伝ってはいたのだが、ぼくが手伝うのは夜だけで、朝はやらなかったし、担当はエサ作りだけだった。二郎は牛舎の仕事はおろか、手伝う仕事の量は三郎にも劣っていた。
 今回は夏休みの週間。お母さんの仕事だったエサ配りをプラスして、一日一人100円、と言う話だった。ぼくは喜んでOKした。なぜなら、夏休みはどうせ暇だし一ヶ月の小遣い2000円に対して3400円もお金が入ることになるからだ。
 しかし、そんなに甘くはなかった。朝は8時にたたき起こされ、お母さんがいないので朝食の用意までしなくてはいけない。おまけに今まで2000円だった小遣いが、こんど手伝い料が入るというので1000円に減らされてしまった。もう一つおまけに、二郎は塾に行くというわけで、ほとんど仕事をしない。今日などは、びしょぬれになって仕事をして帰ってみると、二郎がラーメンをすすりながらテレビを見ていた。こんな不公平な話はない
 そこで、今夜、お母さんに手伝い料を一日150円に値上げしてもらおうと思う。

    おばあちゃんの退院     (一郎・中学3年)

 ようやくおばあちゃんが退院した。今までお母さんが病院にいくので、ぼくは牛舎の仕事をやったり、おばあちゃんが手術する日は病院にいって何時間も待ったりと、いろいろ大変だった。
 しかし、一番大変だったのは、おじいちゃんだったろう。朝おきても誰もお茶を入れてくれず、誰も話し相手がいない。平日の昼など、さぞかし暇をもてあましていたことだろう。そのせいか、いつもイライラし、ぼくたちはよく怒られていたが。また、一番つらかったのもおじいちゃんだろう。
おばあちゃんが入院してからおじいちゃんはタバコをすっぱりやめたのだ。普段ぼくが何度も「タバコは体に悪いからやめろ」といっているのに「悪くなるのは俺だから、別にいいだろう」と必ず言い返していたおじいちゃんだった。それが、タバコをやめたのだ。タバコをやめるのはかなりきついと聞くのに。「おじいちゃんはおばあちゃんを愛しているんだなぁ」とぼくは思った。
それにしても病気が治ってよかった。あすは寿司パーティだ!

    味噌汁      (二郎・中学二年)

 今日は母ちゃんがいなかったので、晩御飯は簡単なもので済ませた。そうしたら、弟の三郎が味噌汁を作ったのだ。「ぼく、味噌汁作れるんだ」と。
 そういって作った三郎の味噌汁は、具がなかった。「うまい」と三郎は言ったが、一郎兄貴は「まずい、食えたもんじゃねぇ」と文句を言って、けんかになった。ぼくはその場で「まあまだな」と言ったが、あんなものまずいに決まっている。しかもうすい。しかし、一生懸命作ったものに「まずい」はひどい。
 人間多少は気を使って生きていくべきだとぼくは思う。

*この兄弟の家は清瀬でも数少ない酪農農家だ。30頭近い牛を飼っている。

 ほかの子どもたちの作文を紹介する。

    アオダイショウ、大暴走      (5年生)

 今日朝早く父と兄とぼくで金山緑地公園に行った。着いてから少し寝転がっていたら、木の周りにおじさんがいたので、ぼくも行ってみた。木を見ると木の上にアオダイショウがいた。アオダイショウは結構大きかった。さっそく僕は兄を呼んだ。
 タモを持って捕まえようとした。だけどヘビは木の上をすいすい移動した。
 5分ぐらいたったときヘビは疲れたのか止まった。ぼくと兄はそのチャンスをねらってそのアオダイショウを捕まえた。ぼくは父のところへ持っていこうとしたけれど、体が大きいので持ち運べない。兄にもてつだってもらった。
 運ぼうとするとアオダイショウが暴れる。父のところまでやっと運んで、袋の中に入れた。けれどすぐ出てくる。アオダイショウの暴走は止まらなかった。捕まえようとするとかみついてくるのでそのままにらんでいた。その瞬間、アオダイショウは草むらに逃げ出した。兄がしっぽの先をつかんだけれどおとなしくならない。そこへおじさんが来てアオダイショウを草むらからだしてくれた。
 それからぼくらはアオダイショウを水の中に逃がして、泳ぐのを見た。
 やっとアオダイショウの大暴走が終わった。

    ぼくの家の魚たち      (5年生)

 ぼくの家では魚を飼っている。メダカ9ひき、カワバタコロモ3ビキ、フナ1匹だ。当然エサもいっぱいいる。だから金山緑地公園からアカ虫を捕ってくる。
アカ虫40匹を全部水そうに入れた。するとまずメダカが食べ、とりのがしたのをカワバタコロモが食べる。ソシテあまったのが下へ落ちてくるとフナが全部食べる。だから、あまることは当然ない。
 毎日三回はエサをやらなければならないから、大変だ。でも魚がエサを食べる瞬間がおもしろい。

    レコード        (中学二年)

 最近は、CDと言う、実に便利なものが出来ている。レコードよりも小さく、多くの音が入り、しかも音がいいというものだ。
 ぼくはある意味ではオーデオマニア。でもCDは、とか、デジタルレコードは、アナログは、などと言うことをぐだぐだ言うつもりはない。レコードが300枚以上あり、カートリッジが20個以上ある一般の家は少ないだろう。そこら辺の電気屋にもそうはないはずだ。ぼくの家にはそれがある。
 それは買ったものもあれば、粗大ゴミ置き場から拾ってきたものもある。
 あちこちにある粗大ゴミ置き場。そこには見るからに使えそうなレコードやプレヤーがたくさん捨ててある。普通の人は見向きもしないだろう。しかし、そこへぼくは出かけていくというわけだ。
古い自転車に乗って、前には黒い大きなカゴ、後ろにも白い大きな大きなカゴ。頭は蜂の巣のような、ねぐせのひどい髪。服は毎日着ていそうな汚い服、足は素足で夏も冬もサンダル。顔はそこそこ黄色人種のような色で、眉毛が薄い。両手は油汚れのひどい軍手をして、右手にはモンキーペンチ、左手にはスパナを持つ。それがぼくの姿だ。ぼくは毎日粗大ゴミをあさる。レコードだろうとオープンデッキだろうと、Lカセットデッキだろうと、使えるものは使えるのだ。
 最近の人は新しいものに頼りすぎる。金持ちだから?これが出たから買おう。ハイ、一万円。・・・とすぐ金が出てしまう。これはいけない、すぐやめろ!ぼくの家なんか、貧乏と言うんじゃないが赤字で、買うことなんてとてもとても・・・手が出ない。そんなわけで、古いものももったいなく、捨てることが出来ないのだ。
 拾ってきたものを修理し、掃除も終わり接続して、そのステレオでぼくはのんびり音楽を聴いている。

  家族とのかかわりの中で

    お父さん      (6年生)

 最近の女の子は、おとうさんにむかって「おやじ」とか「クソおやじ」とか言って嫌うらしい。と、お父さんがボソッと言った。そして、疑わしい目つきで私のほうを見た。
「私はそんなこと言わないよ」と言うと「まあね」そういって、すたすた行ってしまった。
 私はお父さんの言ったことについて考えてみた。確かに前よりお父さんに反抗することが多くなった。お父さんに怒られたときは、この野郎なんて思ったりするけれど、しゃべったり、ふざけたりするときは楽しい、そう思う。悲しかったり怒ったりしているときもいつでも話を聞いてくれるのはお父さんだった。ここまで立派に育ててくれたのもお父さんだ。私の一番の親友はお父さんだ。お父さん、これからも仲良く「悪ガキ大将」いっしょにやろうな。

    家を飛び出して     (6年生)

 この間、私の態度のことでお父さんと親子げんかになってしまって、家を飛び出した。「絶対帰らない」と思って出てきたのだが、歩いているうちに
どんどん涙が出てきてとまらなかった。
 全然さびしくない、悲しくない・・・と無理に強がった私は、落ち着く場所を探した。でも見つからなかった。それもそのはず、私が一番落ち着く場所は、家族がいる家なのだから。
 しばらくして、妹が探しに来た。どうやら親に頼まれたらしい。私は結局三十分もしないうちに帰った。
「何だ、もう帰って来たのか」とお父さんは笑っていた。もちろん私は謝った。でもお父さんは、私がセブンイレブンで暇つぶししていたのだと思っていたらしい。
 やっぱり、こんなに早く帰ったのは間違いだったかな。でも、もう家出なんかしたくない。大好きな家族と会えないのは、こんなにさびしいのだから。
 ニュースや新聞で、親をなくした子どもの記事をみて「かわいそう」しか思わないが、こんな大好きな家族を失うなんて私には考えられない。もっと人の気持ちを考えられるようになるべきだな、私は。

    お父さんと私     (6年生)

 六年生になって、体のことを意識するようになった私。お父さんとお風呂にも入らなくなった。成長しているのだろうか。お父さんは、ちゃんと私が意識していることを知っているから、お風呂上りに洗面所に入るときは、ノックするか一声かけてから開ける。
 お父さんから遠ざかるような気がするけれど、休みの日はいやになるほど一緒に遊ぶ。平日はあわないし、私がいやがる。大好きなお父さんなのに、なぜかいやがる。私にはそれがなぜかよくわからない。時々悩むこともあるけれど、でもやっぱりわからない。
私が意識しすぎるのだろうか。
 クラスの人に聞いてみると、私以上に意識している人がほとんどだ。私だけが意識しすぎているのではないということはわかった。
 お父さんと遠ざかっていくような私。遠ざかりたくないけれど、遠ざかってしまう。どう解釈したらいいのか・・・私には、見当もつかない。

    お母さんのおしり   (5年生)

 お母さんのパンツはぶよぶよだ。でもなぜかパンツはお母さんのおしりにぴったり入るのだ。なぜだろう、と私は考えた。
 「あっ、そうだ。お母さんのおしりがでかいからだ」
と私は思った。
 世の中には、おしりの小さい人と大きい人がいる。私は、当然のことだが小さいおしりのほうが好きだ。お母さんのおしりはあまり好きじゃない。お母さんがどんな洋服を着てもやはりおしりが目立つ。
 私は思った。「私もいずれお母さんのような、あのおしりになってしまうのだろうか?」そう思うと、頭がぐらぐらしてくる。
 でも、私はお母さんが大好きだ。いずれ、私がお母さんのおしりをちいさくするダイエットを教えてあげようと思う。

 おじいちゃんの庭    (中学2年)

 スミレにラベンダーに、ホタルブクルにサツキ。たくさんの花が、おじいちゃんの家の庭で顔をそろえるこの季節。
 私はおじいちゃんの庭に咲く花を観るのが好きだ。おじいちゃんの咲かせる花の色は実にいい。私の家にも同じ花が咲いたのに、花の色が全然違う。不思議と、おじいちゃんの花は、太陽に映える明るい色になる。きっと、一日中面倒を見ているおじいちゃんの愛情の色なんだ。
「これ、何の花?」
「ナデシコだよ」
おじいちゃんは、ぶっきらぼうに答えた後、決まってその花の説明をしてくれる。
「へえ」
おじいちゃんが真剣に話すので思わず、いつもこんな返事しか出来ない。その後、私は決まって、
「きれいだね」
と言う。するとおじいちゃんは、うれしそうに、
「そうだろう」
と言う。

     お母さんの家事放棄宣言     (中学2年)

 家のお母さんは、アニメーターだ。仕事が長引いて、夜八時、九時なんていう日がほとんどだ。そのお母さんが、いきなり、
「毎月、第四日曜日は家事をしない!」
と宣言した。
「何で?」
と聞くと、
「家の男ども(父と兄)は何もしないから・・・お母さんだって疲れているんだ!」
 確かに納得。家事放棄なんて言い出したのもわかる気がする。
 それで、毎週第四日曜日は、父と私で御飯を作ることになった。疲れているお母さんのためにも、私がしっかりしなければいけない。

 最後の作文         (中学2年)

これまで続けてきた「作文」という授業についに別れを告げるときが来た。
 これがおそらく先生に読んでいただく最後の作文になるだろう。
 まず、今回『文章教室』(作文)をやめるという理由は「勉強しなくてはいけない」ということだが、本人がそう思ったわけではない。親からの圧力である。
中2になってから、親は機嫌が悪くなるたびに(か、どうかわからないが)「文章教室をやめろ」とか、「成績が落ちても知らないぞ」とか言って、ぼくは脅され続けていた。それでも、今までどうにか我慢してきたが、ぼくの高校志望校を親に漏らしてしまったため、「それは猛烈に勉強しないと受からない」とか「今のままでは絶対に受からない」などといって、二言目には「文章教室をやめてほかの教科を取るか、土筆塾をやめてほかの塾に移るか、どっちかにしろ」と念仏のように繰り返したのだ。それでもまだ我慢してきたが、冬休み、年末年始にためこんだストレスが爆発し、異常なまでの圧力をかけてきた。
 ぼくは「中三になってから、数学をやる」と言ったのだが、親は「中二の三学期からやれ、ほかの子だってみんなやっているんだ」と繰り返し、とうとうこっちが折れざるを得なくなってしまったのだ。
 親の心配する気持ちはわからなくはないのだが、ぼくの顔を見るたびに顔をしかめて「勉強しろ」だの「教科(受講している)を変えろ」だの言われたら、どんな我慢強い人だって嫌になってしまうだろう。親は、結果として子を信じなかったのだ。
しかし、この一件で、ぼくは10のうち4ぐらいしか親は悪くないと思う。
 では誰が悪いのだろうか?それは今の世の中と言うものが悪いのだ。と、ぼくは思う。今のように親が目の色を変えて「勉強しろ」と叫ばなければならない状況になってしまったからだ。つまり、「勉強しろ」と叫んでいるのは親ではなく、親は単なる受信機なのだ。「世の中」と言うものから送られてくる電波を受けて「勉強しろ」といっているだけなのだ。しかも、「世の中」と言うのは絶対の存在だ。それに逆らうことは非常に難しい。逆らおうとすれば「世の中」の周囲の人々に「変わり者」とか「変人」などと呼ばれ、圧力をかけられ、それに同情する人まで「変わり者」になってしまう。こうなると、よっぽど意志が強くない限り、それをやめてしまう。
 その「世の中」が、誤った方向へ進むと戦争などが始まってしまったり、人が死ぬことを当たり前と思ったり、それをいいことだと思ったりする。
 ではその「世の中」を操っているのは誰か。日本の場合は、いわゆる『政界のドン』と呼ばれたりする人が中心の、「国会」と言うところだ。ところが、その国会の人々も汚職をしたりして、特に『偉い人』ほど金をたくさんもらったりしている。このままでは「国会」は日本の世の中を巻き込んで、腐ってしまうかもしれない。そんな世の中だから、親までがこんなになってしまう、ひどい状況になってしまったのではないだろうか。
 今の日本の「世の中」は、金がすべてだ。金をもらうために一生懸命になって働いたり、人のものを盗んだり、人を殺したりする。儲かるためには多少の犠牲はやむをえない、そういう「世の中」になってしまったのだ。だからぼくみたいな子どもが必死で勉強させられるのも、文部省や、学校や学習塾の陰謀なのかもしれない。その証拠か、今は「月謝の高い塾ほどいい塾だ」などといわれることが多くなるのだ。
 そんな中で土筆塾は真のいい塾だとぼくは思う。塾は土筆のように『人間塾』、つまり、それぞれの個性が生きる塾であってほしい。そして世の中も「人間が生きている」世の中になればいいと思う。
 まあ、こういうことでぼくは「文章教室」をやめて数学をやることになった。これまでいろいろな、変な文章や、バカな文章を読んでいただきどうもありがとうございました。これからも趣味と言う形で文章を書き続けていこうと思います。ほんとうにありがとうございました。

 
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by tsukushi--juku | 2007-06-22 08:06 | Comments(0)
普段着の子ども達
普段着の子どもたちー土筆塾の作文教室―

 私は、武蔵野の面影がまだいくらか残っている東京都の北部、清瀬市の片隅で『土筆塾』いう学習塾を開いている。学習塾といってもいわゆる教育産業の一つといったものでも、また学校教育を補完する補習塾といったものでもない。私自身の教育観、教育理念に基づく我流の塾で、いわば寺子屋的私塾である。
 私は塾を開設した当初から、教科の中に『作文』と言う時間を組んで子どもたちに作文を書かせ続けてきた。2005年9月で28年目に入っている。この間、私は塾の記録として『学び創り遊ぶ』(毎日新聞社)、『心を育み心をつむぐ』(八重岳書房)、『子を思う』(ふきのとう書房)、『生きる力と優しさと』(毎日新聞社)と、4冊の本を出版したが、それぞれの本の中でも多くの作文を取り上げてきた。今回5冊目を出版するに当たり、4冊の本に載せなかったものを3、4篇と、特に4冊の本出版後に書かれた作文を中心に『普段着の子どもたち』として書きとめておきたい。
 一九八七年に出版した『学び創り遊ぶ』の中で私は次のように書いた。どの学年にかかわらず作文が好きだとして入塾して来る子は極めて少ない。作文は嫌いと言う子のほうが多い。ところが何回かやっているうちに好きになる。もっとも最初好きだといい始めるのは作文そのものよりも、作文の授業を使って行う様々な遊びからだ。遊びは主としてビーダマとかベーゴマといった伝承遊びと、竹鉄砲、パチンコ、竹とんぼなど自然を対象にした様々な手作り遊び、それに『焼き物』とか『ぞうり作り』といったものが加わる。
 これらは、子どもたちの体験を大きく広げ、生活を生き生きさせていく。これを書くことと結びつけるのは容易だ。子どもたちは、遊びを通して充実した生活を獲得し始めるとのびのびと作文を書き始める。私は赤ペンで子どもたちの作文を塗りたくる必要はまったくない。ほんの少しだけ、手助けしたり励ましたりすればいいのだ。」
 また1993年に出版した『心を育み心をつむぐ』の中でも次のように書いた。
 「ファミコンやラジコンで遊んだことや、ミニカーやビックリマンシール集めのことなどで作文を書いた子もいたが、それらの作文には発見がないし感動がないのだ。それを書く子どもたちが、その遊びを通して何かを発見したり何かに感動したりする、いわゆる『わくわくする』体験が得られないからなのかもしれない。こうした子どもたちの遊びや生活からは、発見や創造も生まれないのではないか、豊かな感性も想像力も、自らの生活を押し広げていく積極性も、思考力も育たないのではないか。
 そうした予想は当初から私のなかにはあった。だから、出来るだけそれらの遊びは奨励しないようにしてきた。(決して否定はしなかったが)そしてできるだけ自然と触れ合うこと、自然に働きかけることを、遊びの中でも手作りの中でも奨励し、授業の中でもそうした体験を数多くさせるようにしてきた。
 木にしても草花にしても虫にしても、自然は皆生き物だから決して同じではない。季節によっても異なるし種類によっても違う。人間の働きかけの方法それぞれによっても異なる。木の実一つをとっても甘いものもあればすっぱいものもある。渋いものもあれば苦いものもある。そしてその甘さ、すっぱさ、渋さ、苦さもそれぞれに異なる。そのまま口にすることができるものもあれば、手を加えなければ口にすることのできないものもある。色もにおいもみな違う。自然に材料を求める手作りや、それを使って遊ぶ遊び方だっていろいろだ。竹鉄砲、竹とんぼ、パチンコ、木刀作りなどなど、材料も作り方も遊び方もみな異なる。そうであれば当然、それらの手作りや遊びの中には発見があり、驚きがあり、感動があり、感性の様々な反応がある。想像力も思考力も働かざるを得ない。  
 人間の豊かさとは、こうした心の豊かな働きの中で育まれていくのではないだろうか。
 私は、子どもたちの生活にこうした姿勢でかかわり続けながら、好きなことを自由に作文に書かせてきた。作文を書く上で大切なのは「書くことが好きになる」ことだ。そのためには子どもが自由にのびのびと、書きたいことを書く。それを保障しなければならない。
      学校の作文

 学校の作文はつまらない。なぜか。学校では1年生のときは「いつ、どこで何をした・・」と書きなさいといわれ、2年生ぐらいになると「最初、次に、それから、終わり」と言う順に書く。5年生ぐらいになると、「原稿用紙一枚半」とか、枚数が決まっている。・・・学校の作文も自由だったらな・・・(5年生)
 学校の作文はまったくつまらない。いつも書くことが決まっていて「こう書け、ああ書け」といわれる。全然自由に書けない。先生は時々こんなことを言う。「のびのびと自由に書きましょう」。でも実際はそんな自由でのびのびなんて書けない。結局は先生に気にいられるようなウソの作文を書かなければならない。そんな作文よりも本当の作文は土筆塾で書く。そうすると自然に素直になれる。・・・学校の作文も、もっと楽しかったらいいのにな。(5年生)
 こんな中からは作文が好き、と言う子は育たないだろう。「作文はとても楽しい。思ったことを書いても、つまんないことかいても、もんくをいわれないから、楽しい。・・作文大好き。(三年生)と言う環境がなければならないのだ。
 とりわけ、小学校高学年から中学生になると、自由な表現を保障することが極めて大切になる。学校にかかわること、社会や政治にかかわることになると、たとえそれが舌足らずのものであっても、思いのままに書けるという自由が保障されなければならないのだ。
 児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自らの選択する方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。(子どもの権利条約・第13条)
 ここに掲載する子どもたちの作文は、こうした土筆塾と言う環境の中で書かれた。数多い作文の中のほんの一部である


   日常生活を生き生きと

     遊びの中で

    ビーダマ   (6年生)

 塾が終わってから、みんなでビーダマをやった。あてっこだったので「なぁんだ、あてっこか、簡単だ」といってビーダマを取ってきて、われ先にと右側の場所をとった。なぜ右側に場所とったかと言うと、今日は右側の人から順番にやることになったからだ。
 みんな最初は当てられないように遠くへ飛ばす。
 ぼくのビーダマの近くにほかのビーダマが来た。ぼくは「ほら、えさがきた。」といって、次のぼくの番が来るのを、イライラしながら待っていた。どんどん来る、来る。何がって?エサだよ、エサ。1、2、3、4・・・4個もだ。
 やっと番が来たので全部当ててやった。「ざまぁみろ」と得意になった。
 でも次に当てられてしまった。ちきしょう、と思ったけれど、4個もうけたのだからまぁいいやと思った。
 それから10分ぐらいして帰ったが、ビーダマはおもしろい。なんたっておれはビーダマの天才だものな。おもしろいように当たる。

    竹鉄砲、最高!    (5年生)

 今の時季は土筆塾恒例の、竹鉄砲の時季だ。楽しくてたまらない。ぼくはこの時季が一番好きだ。
 先生の作った竹鉄砲は絶品。よく飛ぶし、いりょくはあるし、うち合うとかなり楽しい。
さっそく塾の友達とサバイバルをした。当てたり当てられたり・・・。当てるそのときの快感は、もうたまらない。また、自分の竹鉄砲が「よく飛ぶね」なんていわれたら、うれしくってたまらない。やっぱり竹鉄砲はいいなぁとつくづく思う。
楽しさ、うれしさ、ぎっしりつまったたけ鉄砲。竹鉄砲は最高!
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by tsukushi--juku | 2007-06-16 10:25 | Comments(0)
土筆通信1000号の重み
土筆通信1000号の重み
土筆通信が1000号を超えた。
第1号が1983年4月2日となっているから、塾を始めて7年目と言うことになる。それまではガリ版刷りの、「土筆塾ニュース」と言うのを不定期で発行しているが、定期的に発行するようになったのはこの第1号からということになる。24年間で1000号になるわけだ。基本的には1つの号はB4裏表と言うことだが、B4裏表2・3枚という号もあるから枚数にしたら相当数にのぼる。第1号には「今年度は『土筆通信』を発行することにした。毎日毎日の生活の中で、また授業や子どもたちとのふれあいの中で、気づいたことや、感じたり考えたりしたことを、どんどん書いてみようと思う。どこまで長続きするか・・・父母や生徒の皆さんの、おしかり、激励をお願いしたい」と書いている。この当時はいつまで続くか自信もなかったのだろう。
 こうして出発した通信が24年間で1000号になったわけだ。
 今振り返ってみると、ここには間違いなく一つの歴史がある。それはこどもたちの日常と成長の歴史であり、親と、この小さな塾が、ともに子どもたちの成長にかかわり続けてきた歴史であり、私自身の生きてきた歴史であり、さらに言えば我が家の歴史でもある。それぞれの時代の中で、子どもたちは何を感じ考えてきたのか。それぞれの親は土筆塾とのかかわりの中で、何を感じ、何を考えてきたのか。私自身は何を学びそして何を発信し続けてきたのか。私のことに関していえばそれだけではない。私の生い立ちから始まる73歳の今にいたるまでの生き様そのものも、また、我が家の子育ても、ここには反映されているといっていい。
 さらに付け加えれば、土筆塾10周年を機に出版した本『学び創り遊ぶ』の頃から広がり始めた読者との交流が、その後の本の出版や、あちこちで講演したことなどを通してその後も増え続け、土筆通信を軸にした人の輪が広がり、土筆通信がそれらの人たちを結びつける役割を果たしてきた、そうしたことも土筆通信1000号の歴史に加えていいだろう。
 いま「草の根民主主義」と言うことが言われる。一人一人の心の中にしっかりと根付いた民主主義が求められているのだ。政治権力や政治体制の変化に振り回されて、大勢に押し流される人間ではなく、自らの意志でことのよしあしを判断し、大切なときには行動に立ち上がれる人たち、いまそれが求められている。土筆通信1000号の歩みは、ささやかではあっても『草の根民主主義』の発展に貢献してきたのではないか、そんな自負がないわけでもない。
 土筆通信の歩みに触れながら書いてみたい。1000号と言うと膨大な量だから、あくまでもその一部に触れながら、ということになる。

土筆通信に描かれた子どもたち

 まず1984年代の授業風景について触れる。4月その年学童保育に入れなかった子どもたちがそろって塾に入ってきた。その最初の授業風景だ。土筆通信は次のように書いている。

 なんと何と、大変なにぎやかさになってしまった。今年度は市の学童保育が2年生で打ち切りになったので学童に入ることのできなかった三年生が6人も入塾してきたのだ。初日、この子たちは3時40分からの授業なのに2時過ぎにやってきた。入塾のお祝いと言うわけではないが作っておいた竹とんぼを1本ずつプレゼントして外の駐車場で飛ばすことにした。「学童がなくなったし、暇だから土筆塾に入ったんだ。そうだよねぇ」と一人が言うと「そうだよ、時間がありすぎるんだもん」。みんな口々に言う。「ひまだからきたのか?でも土筆塾は勉強をするところだぞ」と僕。「知ってるよ、勉強もする遊びもする。両方で得するもん」ちゃっかりしたもんだ。大騒ぎして竹とんぼを飛ばした。
 さんざん遊んだがまだ授業には間がある。とにかくみんなを教室に入れて今度は読み聞かせをすることにした。たかしよいち作『がわっぱ』を読む。読み終わる頃学童組み以外の子もやってきた、この日病欠の1名を除いて子ツバメみたいな子どもたちが8名そろった。

   これなんだか知ってる?

 さて授業開始。席順は阿弥陀くじで決めて、神妙な顔で席に着く。僕は日曜日原っぱを歩き回って見つけたつくしを子どもたちに示し「これなんだか知ってる?」と聞く。「つくし、つくし」子どもたちはいっせいに声を張り上げる。「そうだ、つくしだね。」僕は黒板に「土筆」とかく。「つくしと言う字は、土と筆と書きます。筆と言う字はふでと読んで、お習字のとき使う筆のことです。このつくしよく見てごらん、筆に似ているでしょう?」子どもたちは「ウン、似てる」と答える。「土筆塾はこの土筆から借りた名前です。覚えておいてください。」
 こう前置きして授業に入る。今日は算数だ。2年生で習った九九をどれだけ覚えているか尋ねると、みんな知っていると言う。「じゃ、聞くよ。先生が、にさんがと言ったら6と答えてね。一人ずついくよ。ろくは、ハイ、OO君。」「48」。「よしいいぞ、しちし、ハイ、OOちゃん」「28」こうして一通り聞いてみる。ちょっとつかえた子もいたがどうやらみんな合格。そこでこの日は「分かる算数・3」を配って2桁の数に1桁の数を書ける計算を教え、やらせた。

うっかり病の人は注射!

 繰り上がりのない簡単な計算だから子どもたちはどんどんやる。ところが進めていくうちに殆どの子が「うっかり病」にかかる。32×2(ひっさん)を66とやってしまうのだ。1の位とはかけて、10の位とはたし算をしてしまう。20×3(ひっさん)を63とやってしまう子もいる。
「ほら、うっかり病だ。」などといいながら実に楽しく授業を終わった。「ハイ、今日うっかり病にかかった子は早速治療します。」そういいながら一人ずつ、つくしを注射器に見立てて注射のまねをする。「よし、これで治る」。子どもたちは面白がって手を出し、「キャッ、くすぐったい」などと大騒ぎ、1時間はひどく早かった。

 算数でも国語でも授業は子どもたちが楽しく生き生きと、主体的に取り組めるようなものでなければならない。そのためには授業そのものの、工夫も大事だが子どもたちと心の通い合う関係を作ることも極めて大切だ。そしてこの心の通い合う関係はまた、子どもたちの内面的成長に大きな影響を与えるものなのだ。
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by tsukushi--juku | 2007-06-12 12:50 | Comments(0)
土筆塾ニュースの頃
 土筆塾ニュースの頃

塾を開いた当初から、私は塾から親宛にニュースを発行し始めた。看板も掲げず、宣伝もしない、たった13名の寺子屋のような塾だったが、塾での子どもたちの様子はできるだけ伝えなければならない。塾とこどもと親を結ぶニュースが必要だった。
 「土筆塾ニュース」と名づけたこのニュースは、何号まで発行したのか正確には分からない。私は塾関係だけでなく手紙類を含めていろいろな資料を、ダンボールの箱に詰めて、物置代わりに使っている三畳に満たない部屋に積み上げてある。もしかするとこの中に手がかりになるものがあるかもしれない、そう思って大汗をかきながらひっくり返してみた。あった!「土筆塾ニュースの頃」というホッチキスで閉じられた一冊。めくってみると、何号か抜けてはいるが23部ある。最後は1982年3月23日となっている。『土筆塾ニュース』のあとに発行し始めた「土筆通信№1」が、1983年4月2日となっているから、土筆塾ニュースはこれが最後だったかもしれない。
 土筆塾ニュースはガリバン刷り、B4裏表のざらしに印刷された粗末なもので、№が打ってあると思うと日付が抜けていたり、日付はあるが№が抜けていたりと、内容はともかくとして、かなり雑なものだ。
 今回土筆通信は1000号を超えたわけだが、この『土筆塾ニュース』は1000号のなかには入っていない。このまま放って置けば紙も変色して読めなくなってしまいそうだ。それでは困る。なんといっても塾の歴史なのだからどこかにとどめておきたい。ここ何号かの土筆通信に何回か載せたが、新たに見つかった分をここに少し書きとめてみたい。

    教室風景  先生えんぴつけずってぇ!

 1年生から3年生までの子どもたちは、授業を始める前になると、大抵「えんぴつ、けずってぇ」と来る。「よし、早く出せ」というと、たちまち何本かの鉛筆が私の前に並ぶ。なかには2・3本出す子がいる。自慢ではないが私は鉛筆削りが得意だ。子どもの頃からやっていたからだ。
 私が子どもたちの鉛筆を削ってやるようになったのは、それなりの理由があった。私は、子どもが文字や文を書く時、一人一人の手元を見るようにしている。特に1・2年生は鉛筆の持ち方が気になるし、筆順が気になるからだ。そんな時ふと見ると何人かの子どもが、やっと芯が出ているといった鉛筆を使っている。これでは文字も正確に、きれいに書くことはできないぞと思った私は「そんな鉛筆で書いたら字がかわいそうだぞ、出せ」といってナイフで削ってやった。
 ところがその次の時もまた鉛筆は丸っぽ。「どれ、削ってやる。」こうしたことが繰り返され、とうとう毎回、鉛筆削りをしてやることになったわけだ。
 鉛筆は家で削ってくるにこしたことはない。自分で削るのであればもっといい。ナイフで削れるようであればなおさらだ。しかし、私は、授業の始まる前のわずかな時間、ナイフで鉛筆を削ってやることを通して、そこに子どもたちとの心の通い合いを感じ、それもいいことだな、と思うようになった。
 私の娘が「お父さんは、えんぴつのおいしゃさん」という作文を書いた。短くなって使えなくなった鉛筆を竹に差し込んでやっただけのことだが、子どもには「鉛筆のお医者さん」と思えたのだろう。ナイフで鉛筆を削ってやる、短くなった鉛筆を使えるようにしてやる。些細なことだが、そうした手作りが子どもの心に何らかの形で残っていくのではないだろうか。
 子ども達には、自分の手で物を作り、自分の頭で工夫するようになってほしい、私はそう思っている。
 先生、えんぴつけずってぇ!はまだ続いていくことだろう。(『土筆塾ニュース』№2)

 次の土筆塾ニュースは、1981年6月12日となっているが№が打ってない、前後の関係から判断すると№16と言うことになるだろう。「子どものやる気を育てるために(2)」となっているが(1)に当たるものがない。これだけでも書きとめておきたい。

   子どものやる気を育てるために(2)

 6月8日発行の子どもの作文集(当時私は毎週書かれる子どもたちの作文を何ヶ月かまとめて文集にしていた)のあとがきに、私は「子どもの個性を発見し、それを伸ばしてやることは教育の大事な仕事だが、それは生まれた時から子どもと接している母親の大事な仕事でもある」と書いた。そして「ところが今日、親も教師も子どもの個性を発見しそれを伸ばすことに心を砕くよりも子どもの個性を摘み取り、子どもを平均的人間にするために懸命になっているのではないか。たとえば、母親が子どもを評価する基準がテストの点数や、通信簿の成績中心になっていて、その傾向は高学年になるにつれて強まり、中学生になるとそれだけと言うことになっていないだろうか?」と懸念を表明しておいた。
 僕は教育の仕事の大事な側面として、子どもの個性を見つけ、それを認め激励し、伸ばしてやると言うことがあると考えているが、これはまた子どものやる気を育てることにも結びついているようにも思う。
 4年生のある子が、ブロック塀の小さな穴に、小鳥が巣を作り、のぞいてみても見えないけれど、耳を澄ますとピーピーひなの鳴き声がする。毎日ブロック塀に耳をつけてそれを聴いている、という作文を書いた。私はそれに触れて「あとがき」の中で「ブロック塀にじっと耳を当てて、雛の声に胸を躍らせる子どものみずみずしい感性は、点数には表れない。だがそれは、その子の成長にとってかけがえのないもの」と書いた。後で母親に聞いたのだが、この子はそのことが嬉しくって、その喜びようは大変なものだったと言う。この子はおそらくこれからもいっそう張り切って作文を書くだろう。
 これはほんの一例だが、やる気とは、その子の個性を認め評価する、ほんのささやかな営みの中で引き出され、育てられていくものなのだ、と僕は思う。
 よくやる気を起こさせるには、他人に負けるなと競争心を刺激し、点数を1点でも上げさせる競争に駆り立てることだと思っている方が、親にも教師にもいる。特に中学へと進み、受験という言葉がぶら下がってくるようになるとこの傾向に拍車がかけられ、やる気はそうした中で出てくるものだと思い込む。そして子どもがその競争に夢中になり始めると「やる気が出てきた」と喜ぶのだ。親のそうした気持ちは分からなくはないが、僕はこうした「やる気」にはいささか疑問を感じる。仮にそれが勉強意欲になったとしてもその競走の中で失う人間的損失の大きさを心配しないではいられない。
 マラソンランナーのように、ゆっくりではあるが、根気強く個性を発見し、それを自覚させ、自らの内から「やる気」がでてくるように激励し続けていくことが大切なのではないだろうか。「そんな理想論ばかり言っていられない」という声が耳元で聞こえるようだが、あえて書いておく。

 この号はまだ続くが、長くなるので、次回ということにしたい。
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by tsukushi--juku | 2007-06-08 13:27 | Comments(0)
土筆塾30年
 
  はじめまして。
 今回土筆塾ブログを開設しました。なにぶんにも不慣れなのでドジばかりするかもしれませんが、よろしく。
 私は土筆塾という寺子屋のような学習塾を開いています。4月に塾30年を迎えました。一時の乱塾時代に、よくつぶれもせず子どもと、親と地域に支えられて生き残ってきました。私は塾通信として土筆通信を週刊で発行してきましたが、通信は1000号を超えました。今では全国に読者が散在しています。塾30年、土筆通信1000号突破を機に、ブログを通しても発信したいそうおもっています。 私のメッセージは多岐 にわたりますがとりあえず  第1回をおくります。

      かくして名もない塾が誕生した


 塾が誕生して30年を迎えた。この間、塾を卒業した子、あるいは何年か土筆塾にかかわった子は数えたことはないが膨大な数に上るだろう。塾の記録として私も4冊の本を書いた。『学び創り遊ぶ』(毎日新聞社)、『心を育み心をつむぐ』(八重岳書房)、『子を思う』(ふきのとう書房)、『生きる力と優しさと』(毎日新聞社)がそれだ。
塾が誕生したころを少し振り返ってみよう。

 塾が誕生したころ、生徒はわずか13名だった。1人しかいないという学年もあった。教室もまだなく、我が家の2階の6畳間に、テーブルを二つ並べて、向かい合って勉強した。黒板だけが真新しく大きかった。物干し台になっていたところを、近所の人に手伝ってもらいながら日曜大工で囲って粗末な屋根をつけ、そこに謄写版を置いて教材や文集、通信などの印刷所とした。なんともお粗末な寺子屋的塾だった。もっとも宣伝一つせず名前すらない、したがって看板も掲げない(『土筆塾』となった今も看板は掲げていないが)塾で、知っている人といえば私の娘たちの保育園・学童保育園時代の友人、知人ぐらいのものだったから、仕方がなかった。
当時、私の頭の中には、学習塾といえばいわゆる受験産業としてのそれしかなかった。その種の学習塾は現状では必要かもしれないけれど、決して本来の教育とはいえないと考えていたし、この種の「学習塾」には批判的な人間だった。だから私自身が学習塾を開こうなどとは思いもよらないことだった。
 私は学生時代から児童文学を学び、大学を出てからは教師になった。子どもが好きだった私にとって、子どもとかかわって生きることは生きがいでもあったし、子どもとかかわって生きられるところが私の居場所だとも思っていた。
 ところがある政党の要請で教師をやめ、政治活動に携わるようになって、青年運動、地方議員候補者、そして国会議員秘書と、12年間を子どもとはなれたところで過ごしてしまった。もちろんそれは私自身も望んだことであったし、これらの生活の中でたくさんのことを学び、かけがえのない体験をしたわけだからまったく悔いはないが、40代に入って改めて自分を振り返ったとき、もう一度子どもとかかわったところで生きたい、と言う思いに突き動かされたのだった。
そして当時の私の仕事であった衆議院議員秘書を辞したのだった。だが、もう一度教師に戻ることは、年齢制限に引っかかったこともあって、出来なかった。私は42歳になっていた。教師がダメなら何をするか、再就職は甘いものではなかった。
 そんなときだった。近所で親しくしていた方から「塾をやんなさいよ、あなたならきっと大丈夫。うちの子も頼むわ」などと話を持ちかけられたのだった。
 「学習塾といったって何も教育産業の片棒を担がなくたっていい。オレなりのやり方でやる塾だってあっていいはずだ。どこの塾にもない、学校教育でも出来ないオレ流の教育をやることだってできるだろう。子どもたちが来てくれるかどうかわからないが、とにかくやってみよう」
私はやっとその思いに到達した。こうして名もない塾が誕生したのだった。

    もう一つの学校・遊び場、そして家庭 

 塾を開いた当初、小学4年生として入塾した子どもたちが中学を卒業したとき、私はその子どもたちを『土筆塾』第一期生と呼んだ。途中から入塾した中学生も何人かいたが、開設した当初から在籍した子どもたちでは、4年生が最も上級生だったからだ。この第一期生が今年40歳になるが、振り返ってまず一期生のことについて触れる。
 1989年10月26日、私の住む清瀬市に10年前に誕生し、私自身もかかわり続けてきた『清瀬子ども劇場』が、11年目に向かう定期総会を開いた。私ももちろん出席したが、この総会の議長を務めたのは土筆塾の第一期生、I君だった。彼は土筆塾で中学三年まで学び、高校在学中はどこの塾にも予備校にも通わず『清瀬子ども劇場』の青年部の一員として、小、中学生の指導に当たった。一浪して、その間だけ予備校に通ったが、その後東大文化一類(法学部)に合格した。彼が東大合格の報告に来たくれたとき、私は「東大に入ったから偉いのではない、これから何を学び、誰のためにそれを役立てるかで、人間は評価されるのだ」と言った。民主的生き方を貫いてくれていると私は確信している。
 彼は現在参議院予算委員会事務局に勤務しているが、その後の歩みについては、毎日新聞社から出版した『生きる力と優しさと』の中で触れている。ところでやはり第一期生で千葉大を出てOLになっているOさんは高校三年の時、土筆塾で学んだ思い出をこう書いてくれた。

         土筆塾によせて

 土筆塾を語れといわれて、即座に一言で答えられる生徒は、私と同じように土筆にはそういないのではないかと思う。少なくとも私たち第一期生は、塾生であったときも現在もそうである。土筆は端的に行ってしまえば、私たちのもう一つの学校であり、遊び場であり、家庭だった。土筆にくればそれだけで、いじめっ子のことも友達とのケンカのこともみんな一時心を去ってしまう。安心していられた場所―私にとって土筆塾はそんな場所だった。
 特に私がもう一度受けてみたいのは作文の授業だ。私が小学生だった頃「書くことがまったくないはずはない」と土屋先生がよく言われたことを覚えている。「人間は思考して生きているのだから、普段思っていることを言葉にしてみろよ」そう先生は語りかけ私は物事にいちいち感じる心を自分も持っていると知った。また、日常を見直し自分を省みることを覚えた。もちろん、当時の幼い私がそこまで考えて「作文」を楽しいと思ったわけではない。「作文」は授業と言うよりも遊びだった。竹鉄砲や竹とんぼ、焼き物などを作ったこと、林の散歩、雪合戦、わら草履作り、・・・数え上げればいくらでもある。それらを作文の授業中にやったことは、ざらに出来る体験ではない。
 自分の手で作る楽しさ、それで遊ぶ面白さ。わたしは「作文」にいくたびに新しく何かを知って、そのたびにワクワクしたものだ。今でも私は林を散策するし、押入れには大切に竹とんぼや竹鉄砲がしまってある。
 最後に、われらが父親であり、遊び友達であり、相談相手であった土屋先生。土筆塾は土屋先生だからできたのだし、土屋先生なしの土筆塾はミソを入れない〝ミソ汁〟のようなものだろう。どうかもう二十年も三十年も長生きして土筆塾を続けていって欲しい・・・
                       (『学び創り遊ぶ』より)
 
 第一期生たちは今年40歳になる。土筆塾を卒業した子どもたちについてはその後どのような歩みをし、現在どう生きているのかを、限られた子どもたちではあるが『生きる力と優しさと』の中で、「卒業生その後」として少し書いた。卒業生の成長を見守る喜びをかみしめ、30年を振り返りながら、今改めて歩んできた月日を振り返っている。

    教育は人間が人間に働きかける営み

私にとって教育とはなんだったのか。『心を育み心をつむぐ』の中で私はこう書いた。
「教育とは、単なる知識の伝達ではない。まして伝達した知識をどれだけ覚えたかをテストで試し点数で序列化していく(さらに言えば、その内申点や偏差値で受験する高校まで振り分けられていく)ような営みでは決してない。
私は、教育を人間が人間を教え育む営みと考えてきた。教師と言う人間が、これから成長していく子どもという人間に、知識を伝達したり、知的、文化的あるいは人間的刺激を与えつづけたりしながら、子どもの心に働きかけ、子どもの心を揺さぶり、子どもの内にある力を引き出し、自覚させ、子どもが自らの力で学び、生きていく土台を作るために援助し続ける、そうした営みだと考えてきた。
教育が、人間が人間に働きかける営みである以上、そこには魂のふれあいがあり信頼関係がなければならない。現在の教育が「教えたことをどれだけ覚えたか」を点数ではじき出す、いわゆる偏差値重視の教育に汲々としている中では勢い魂のふれあいやぬくもりのある人間関係は切り捨てられていくだろう。そこで幅を利かせるのは管理を指導と錯覚した、管理主義と偏差値教育と言うことになりはしないだろうか?こうした傾向が学校も進学塾も含めてあちこちに無数に転がっていることを、私は残念に思う。
教師は権威を振りかざして子どもを管理するのではなく、一人の人間として、全人間性をかけて子どもと向き合わなければならない。子どもたちは、教師の人間的魅力、人間的力量、人間としての生きざまを通して、学ぶ喜びや意欲を引き出されるだけでなく、それを通して自らの心を育て自らの人間形成をおし進めていく。教師は、こうした面でもまた、子どもたちの援助者でなければならない。
私はそれに値する人間であるかどうかを自らに問いかけ続けながら、その課題を背負って子どもたちと向き合ってきた。」 (『心を育み心をつむぐ』より)
この姿勢は今も変わっていない。確かに歳はとった。だが、「日残リテ昏ルルニイマダ遠シ」(藤沢周平『三屋静左衛門残日録』より)といったところ。まだ昏れてしまうわけにはいかない。

 
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by tsukushi--juku | 2007-06-04 23:06 | Comments(0)