人気ブログランキング | 話題のタグを見る


by tsukushi--juku
土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

土筆塾30年
 
  はじめまして。
 今回土筆塾ブログを開設しました。なにぶんにも不慣れなのでドジばかりするかもしれませんが、よろしく。
 私は土筆塾という寺子屋のような学習塾を開いています。4月に塾30年を迎えました。一時の乱塾時代に、よくつぶれもせず子どもと、親と地域に支えられて生き残ってきました。私は塾通信として土筆通信を週刊で発行してきましたが、通信は1000号を超えました。今では全国に読者が散在しています。塾30年、土筆通信1000号突破を機に、ブログを通しても発信したいそうおもっています。 私のメッセージは多岐 にわたりますがとりあえず  第1回をおくります。

      かくして名もない塾が誕生した


 塾が誕生して30年を迎えた。この間、塾を卒業した子、あるいは何年か土筆塾にかかわった子は数えたことはないが膨大な数に上るだろう。塾の記録として私も4冊の本を書いた。『学び創り遊ぶ』(毎日新聞社)、『心を育み心をつむぐ』(八重岳書房)、『子を思う』(ふきのとう書房)、『生きる力と優しさと』(毎日新聞社)がそれだ。
塾が誕生したころを少し振り返ってみよう。

 塾が誕生したころ、生徒はわずか13名だった。1人しかいないという学年もあった。教室もまだなく、我が家の2階の6畳間に、テーブルを二つ並べて、向かい合って勉強した。黒板だけが真新しく大きかった。物干し台になっていたところを、近所の人に手伝ってもらいながら日曜大工で囲って粗末な屋根をつけ、そこに謄写版を置いて教材や文集、通信などの印刷所とした。なんともお粗末な寺子屋的塾だった。もっとも宣伝一つせず名前すらない、したがって看板も掲げない(『土筆塾』となった今も看板は掲げていないが)塾で、知っている人といえば私の娘たちの保育園・学童保育園時代の友人、知人ぐらいのものだったから、仕方がなかった。
当時、私の頭の中には、学習塾といえばいわゆる受験産業としてのそれしかなかった。その種の学習塾は現状では必要かもしれないけれど、決して本来の教育とはいえないと考えていたし、この種の「学習塾」には批判的な人間だった。だから私自身が学習塾を開こうなどとは思いもよらないことだった。
 私は学生時代から児童文学を学び、大学を出てからは教師になった。子どもが好きだった私にとって、子どもとかかわって生きることは生きがいでもあったし、子どもとかかわって生きられるところが私の居場所だとも思っていた。
 ところがある政党の要請で教師をやめ、政治活動に携わるようになって、青年運動、地方議員候補者、そして国会議員秘書と、12年間を子どもとはなれたところで過ごしてしまった。もちろんそれは私自身も望んだことであったし、これらの生活の中でたくさんのことを学び、かけがえのない体験をしたわけだからまったく悔いはないが、40代に入って改めて自分を振り返ったとき、もう一度子どもとかかわったところで生きたい、と言う思いに突き動かされたのだった。
そして当時の私の仕事であった衆議院議員秘書を辞したのだった。だが、もう一度教師に戻ることは、年齢制限に引っかかったこともあって、出来なかった。私は42歳になっていた。教師がダメなら何をするか、再就職は甘いものではなかった。
 そんなときだった。近所で親しくしていた方から「塾をやんなさいよ、あなたならきっと大丈夫。うちの子も頼むわ」などと話を持ちかけられたのだった。
 「学習塾といったって何も教育産業の片棒を担がなくたっていい。オレなりのやり方でやる塾だってあっていいはずだ。どこの塾にもない、学校教育でも出来ないオレ流の教育をやることだってできるだろう。子どもたちが来てくれるかどうかわからないが、とにかくやってみよう」
私はやっとその思いに到達した。こうして名もない塾が誕生したのだった。

    もう一つの学校・遊び場、そして家庭 

 塾を開いた当初、小学4年生として入塾した子どもたちが中学を卒業したとき、私はその子どもたちを『土筆塾』第一期生と呼んだ。途中から入塾した中学生も何人かいたが、開設した当初から在籍した子どもたちでは、4年生が最も上級生だったからだ。この第一期生が今年40歳になるが、振り返ってまず一期生のことについて触れる。
 1989年10月26日、私の住む清瀬市に10年前に誕生し、私自身もかかわり続けてきた『清瀬子ども劇場』が、11年目に向かう定期総会を開いた。私ももちろん出席したが、この総会の議長を務めたのは土筆塾の第一期生、I君だった。彼は土筆塾で中学三年まで学び、高校在学中はどこの塾にも予備校にも通わず『清瀬子ども劇場』の青年部の一員として、小、中学生の指導に当たった。一浪して、その間だけ予備校に通ったが、その後東大文化一類(法学部)に合格した。彼が東大合格の報告に来たくれたとき、私は「東大に入ったから偉いのではない、これから何を学び、誰のためにそれを役立てるかで、人間は評価されるのだ」と言った。民主的生き方を貫いてくれていると私は確信している。
 彼は現在参議院予算委員会事務局に勤務しているが、その後の歩みについては、毎日新聞社から出版した『生きる力と優しさと』の中で触れている。ところでやはり第一期生で千葉大を出てOLになっているOさんは高校三年の時、土筆塾で学んだ思い出をこう書いてくれた。

         土筆塾によせて

 土筆塾を語れといわれて、即座に一言で答えられる生徒は、私と同じように土筆にはそういないのではないかと思う。少なくとも私たち第一期生は、塾生であったときも現在もそうである。土筆は端的に行ってしまえば、私たちのもう一つの学校であり、遊び場であり、家庭だった。土筆にくればそれだけで、いじめっ子のことも友達とのケンカのこともみんな一時心を去ってしまう。安心していられた場所―私にとって土筆塾はそんな場所だった。
 特に私がもう一度受けてみたいのは作文の授業だ。私が小学生だった頃「書くことがまったくないはずはない」と土屋先生がよく言われたことを覚えている。「人間は思考して生きているのだから、普段思っていることを言葉にしてみろよ」そう先生は語りかけ私は物事にいちいち感じる心を自分も持っていると知った。また、日常を見直し自分を省みることを覚えた。もちろん、当時の幼い私がそこまで考えて「作文」を楽しいと思ったわけではない。「作文」は授業と言うよりも遊びだった。竹鉄砲や竹とんぼ、焼き物などを作ったこと、林の散歩、雪合戦、わら草履作り、・・・数え上げればいくらでもある。それらを作文の授業中にやったことは、ざらに出来る体験ではない。
 自分の手で作る楽しさ、それで遊ぶ面白さ。わたしは「作文」にいくたびに新しく何かを知って、そのたびにワクワクしたものだ。今でも私は林を散策するし、押入れには大切に竹とんぼや竹鉄砲がしまってある。
 最後に、われらが父親であり、遊び友達であり、相談相手であった土屋先生。土筆塾は土屋先生だからできたのだし、土屋先生なしの土筆塾はミソを入れない〝ミソ汁〟のようなものだろう。どうかもう二十年も三十年も長生きして土筆塾を続けていって欲しい・・・
                       (『学び創り遊ぶ』より)
 
 第一期生たちは今年40歳になる。土筆塾を卒業した子どもたちについてはその後どのような歩みをし、現在どう生きているのかを、限られた子どもたちではあるが『生きる力と優しさと』の中で、「卒業生その後」として少し書いた。卒業生の成長を見守る喜びをかみしめ、30年を振り返りながら、今改めて歩んできた月日を振り返っている。

    教育は人間が人間に働きかける営み

私にとって教育とはなんだったのか。『心を育み心をつむぐ』の中で私はこう書いた。
「教育とは、単なる知識の伝達ではない。まして伝達した知識をどれだけ覚えたかをテストで試し点数で序列化していく(さらに言えば、その内申点や偏差値で受験する高校まで振り分けられていく)ような営みでは決してない。
私は、教育を人間が人間を教え育む営みと考えてきた。教師と言う人間が、これから成長していく子どもという人間に、知識を伝達したり、知的、文化的あるいは人間的刺激を与えつづけたりしながら、子どもの心に働きかけ、子どもの心を揺さぶり、子どもの内にある力を引き出し、自覚させ、子どもが自らの力で学び、生きていく土台を作るために援助し続ける、そうした営みだと考えてきた。
教育が、人間が人間に働きかける営みである以上、そこには魂のふれあいがあり信頼関係がなければならない。現在の教育が「教えたことをどれだけ覚えたか」を点数ではじき出す、いわゆる偏差値重視の教育に汲々としている中では勢い魂のふれあいやぬくもりのある人間関係は切り捨てられていくだろう。そこで幅を利かせるのは管理を指導と錯覚した、管理主義と偏差値教育と言うことになりはしないだろうか?こうした傾向が学校も進学塾も含めてあちこちに無数に転がっていることを、私は残念に思う。
教師は権威を振りかざして子どもを管理するのではなく、一人の人間として、全人間性をかけて子どもと向き合わなければならない。子どもたちは、教師の人間的魅力、人間的力量、人間としての生きざまを通して、学ぶ喜びや意欲を引き出されるだけでなく、それを通して自らの心を育て自らの人間形成をおし進めていく。教師は、こうした面でもまた、子どもたちの援助者でなければならない。
私はそれに値する人間であるかどうかを自らに問いかけ続けながら、その課題を背負って子どもたちと向き合ってきた。」 (『心を育み心をつむぐ』より)
この姿勢は今も変わっていない。確かに歳はとった。だが、「日残リテ昏ルルニイマダ遠シ」(藤沢周平『三屋静左衛門残日録』より)といったところ。まだ昏れてしまうわけにはいかない。

 
by tsukushi--juku | 2007-06-04 23:06