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by tsukushi--juku
土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

朝鮮人の友人
 ヘイトスピーチ(憎悪表現)。「朝鮮・韓国人は出ていけ」「殺せ」など聞くに堪えない差別的言動が勢いを増し、大きな社会問題になっている。今、私はヘイトスピーチについて書くことはしないが、ふと、私の親しかった朝鮮人の友人のことを思い出した。彼はもう亡くなっているが私に大きな影響を与えた友人であり、今も私の心の中に生き続けている。彼について土筆通信に雑文を書いているので、再録してみたいと思う。
 

 1994年、土筆通信371号から10回にわたって、私は「日記としで綴るわが青春の断面」と言う文章を連載した。その3回目、土筆通信373号に「朝鮮人の友人」と言う文章を載せている。そのまま再録してみたい。
 
                   朝鮮人の友人

 雑誌「日本の子ども」に勤めだした頃、(*大学を卒業して1年間、私は児童文学者古田足日氏の紹介で、「日本の子ども」編集部に勤務した。)私は学生時代、兄弟で住んでいた杉並のアパートを出て、渋谷区代々木八幡の、国道沿いにある3畳1間と言うアパートの1室に住んでいた。古いアパートで、夏の夜などは南京虫にせめられた。布団の周りに新聞紙を敷きつめて寝るのだが、夜中になるとその新聞紙の上を走るカサカサというかすかな音がする。あわててとび起きて、電気をつけて南京虫退治に這いまわったものだ。
 私には大学時代から親しくしていた朝鮮人の友人がいた。この友人がある夜、アパートの部屋に突然転がり込んできて、数か月一緒に暮らしたが、彼が転がり込んできた夜のことを雑文に書いている。

 「コツコツ」とドアをたたく音で、目を覚ました。時計を見ると午前4時。誰だろう今ごろ。始発電車にはまだ間がある。と言ってアパートの人達はまだ寝静まっているはずだ。とにかく、私は「ハイ」と言って丹前を引っ掛けてドアを開けた。
 まるで死人のような青白い顔、Kだ。Kは私の親しい朝鮮人の友人だ。
「どうしたんだ、今ごろ」
「いやあ、ひどい目に遭ったよ」
 彼は部屋の中に落ち着くと話し始めた。「あれからさ」、と言うのはその日の夕方、職場からの帰りに駅で待っていたという彼に会って、荻窪まで行くという彼に電車賃30円をやったのだ。
「荻窪へ行ったわけよ。ところが訪ねたやつがいない。下宿の人に聞いてみたけど、さあね、という始末さ。仕方がねぇんで、また来るからもし帰ってきたら、どこにも行かないように伝えてほしいと頼んで、さて、どこで時間をつぶそうかと迷ったよ。文なしさ。仕方がねえから3・4軒本屋をぶらついて10時過ぎもう一度行ったんだ。いねぇ、まだ帰っていないと言うんだ。それでまた駅まで引き返したさ、駅まで20分もあるんだぜ。そこでまた時間つぶしさ。しょうがないから改札口に突っ立ってたよ。イライラしながら30分。それから駅の周りをぶらついた…。もう終電近くなっていた。帰るにも金はないし、帰りようがねぇ。何としても奴に会って金を借りなきゃあ。それでまた行ったさ。ダメだ、とうとう奴は帰らなかった。ええぃ、ってヤケクソさ、それでここまで歩いてきたわけだ。」
 そこで話を切ると、彼は私の目の前に握りこぶしを突きだした。血が出ていた。もっとも血は凍りついて固まっていたのだが、彼はまた話を続けた。「これ、」と言って握り拳をもう一度突き出して「辻強盗、こんな言いかたおかしいかな、とにかく遭ったんだ。蚕糸試験場の辺りだったかな。一人の若い男が金を出せときやがった。何にもねえってポケットをひっくり返してやったさ。そしたら、そのジャンバー置いていけと来た。こりゃあ俺のじゃねぇ、友達のだ、こいつを取られたんじゃたまらねぇと思ったさ。と言ってどうしたらいいか…。ふと気がつくと相手はオーバーを着ている。それに皮靴だ。よし、と思ったよ。おれはジャンバーに運動靴だ、身軽だ、これなら逃げきれると思った。おれはいきなり相手の顔面を殴りつけた。アッと後ろにのけぞったんで、一目散さ。殴った時相手の歯に当たったんだ。」
 彼はまた握りこぶしを見た。
「とにかく寒い。首をちぢめて歩いて来たので首が痛くって…。ひどい目に遭ったよ」
 私はただあきれてしまった。
「バカだなぁ。警察でも駆け込んで事情を話して金でも借りればいいんだ。構うもんか、おれだったらその手だ」
「あとが面倒だからよ。日本人ならとにかく。」
 もう朝方だったが、とにかく一つ布団に二人で寝た。
 私が起きた時、彼はぐっすり眠っていた。青白い顔だった。その顔を見ながら私はやりきれない寂しさに襲われた。金だ、問題はこれだ。だが私の手元には職場に行く定期券のほかは一銭の金もなかった。彼にやるどころかその日の昼飯代をどうするか、まぁ、おれの方は何とかなる。こんな生活には慣れきっているはずなのにやりきれなく寂しかった。
 私は自分の丹前を彼の上にそっとかけて、何も食わずに出勤した。」

 とにかくその頃の私は(友達も含めてだが)ひどく貧しかった。

 この朝戦人の友達については、その後次のような詩を書いている。

  朝鮮人のあいつ

あいつ今ごろどこで空気を吸っているか/おやじとおふくろの血のにじむ暮らしの中で大学の門をくぐって/その日から俺の心臓にぶら下がって離れなかったあいつ/今、どこで空気を吸っているか/傾いたアパートの6畳の部屋に南京虫と同居して/俺にマルクス、レーニンを語り続けたあいつ/今どこで空気を吸っているか/金が続かなくなって3年で大学を中退して/翌日から画報屋のタコ部屋に住み込んで/搾られた血の代償を要求したばっかりに3カ月でたたきだされ/俺の部屋に転がり込んできたあいつ/今、メシはたらふく食っているか/それからというもの/パチンコ屋に10日、土方を1カ月/今度は大阪に高跳びして鉄屑屋で2カ月/あっちこっち根なし草になってしまったあいつ/今、どこのせんべい布団にくるまっているか/その後の手紙によれば/大阪の飯場を転々/挙句の果ては紀州熊野川の山奥で/酒とケンカと宗教に良心を奪われまいと/必死でおのれと戦いながら土方仕事に明け暮れているという/あいつ、その後どこへ流れていったか/それっきり消息がなく数カ月も経ったのに/あいつ、今どこで空気を吸っているか。

 私の「日本の子ども編集部」の仕事は1年で終わった。神戸に教師の口が見つかったからだ。大学時代の教授の推薦だった。

 以上が土筆通信373号の文章だ。20代前半の頃の文章だから全くの「雑文」だが読んでいただけたらありがたい。
by tsukushi--juku | 2015-01-15 11:22