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by tsukushi--juku
土筆塾主宰・土屋春雄のブログ

誕生日を前にして
誕生日を前にして
M・Hさんが次のような作文を書いた。読みながらそれぞれの誕生日をあれこれ思った。思いつくままに書いて今回の土筆通信とする。

 十八歳の誕生日
                      高三 H子

 先日、私はめでたく十八歳の誕生日を迎えた。十八歳というと、子供から大人へと切り替わる年頃だと思う。何かが大きく変わったわけではないが少し気の持ち方が変わり、以前より落ち着きが出てきた気がする。
 大切な十八歳の誕生日を、私は家族と過ごした。家族三人で花見をしに国立まで行って来た。国立の駅を出ると遠くまで続く桜並木が目に飛び込んできた。丁度満開で見ごろな桜はとても美しい。やさしい淡い色の桜は、私が一番好きな花だ。とてもいい季節に生まれたものだ。桜を見るたびに私はそう思う。
 さて、国立に来たのは桜のためだけではない。実は、ある人に会いに来たのが一番の目的だ。その人はきれいなアクセサリーを作るのが大好きで、今回は国立で個人展覧会を開くことになったのだ。初めての個展ということで数日前にそれを知らせる葉書を送ってくれた。私は何年か前にその人にアクセサリーを作ってもらっていた。小さなチャームがいくつか付けられたブレスレットだ。それを身に付けて会いに行った。実はその人に会ったことがなかったので、会うのはその日が初めてだ。何年か前に作ってもらったブレスレットだけが、私とその人を結んでいる。少し緊張しながら私は個展が開かれている店へと入った。
 店の中にはたくさんの小さなアクセサリーが並べられていた。どれも個性的で、面白いデザインをしている。そんな小物並べられたカウンターの奥に一人の女性がいた。彼女は私たち家族が入ってきたのを見るとすぐにカウンターの奥から出てきて挨拶をしてくれた。私たちも一通り挨拶をして、名乗ると彼女はとても驚いた。私が身に付けてきたブレスレットを見せるとさらに驚いて、それからとても嬉しそうに笑った。
 まさか何年も前に作ったブレスレットを身に着けてくるとは思っていなかったのだろう。このブレスレットは私のお気に入りで、大切な用事がある日や、遊びに出かけるときなどによく付けている。そのことを話すと彼女は何度もありがとう、ありがとうと言った。その様子からするとこのブレスレットには深い思い入れがあるようだ。話を聞いてわかったのだがなんと、このブレスレットが彼女の初仕事だったらしい。それだからよく覚えていると言っていた。それを私が身に付けている。そして何年も時が経ち、私の誕生日に初めて顔を会わせることになったのだ。これはすごい偶然だ。何かの縁を感じずにはいられない。
 せっかくの誕生日なので、プレゼントを買ってもらうことになった。鍵と四葉のクローバーのチャームにピンクのアメジストの石を付けたネックレス。これはとても良い記念になるだろう。即私はそれを身に付けた。すると彼女が誕生日記念にとカメラで写真を撮ってくれた。私が真ん中で左右には両親が立つ。家族写真なんて何年ぶりだろう。久しぶりに撮ってもらう写真は少し照れくさい。でも、きっとこれも良い思い出になるだろうと思う。
誕生日をこんなに楽しく過ごしたのはいつ以来だろうか。私の心の中にまたひとつ大切な思い出が増えた。この十八歳の誕生日を、私はずっと忘れないだろう。

私の誕生日のことなど
Hちゃん、誕生日おめでとう。私もまもなく誕生日だ。そういえば四月誕生日を迎えた子供たちのことを思い出した。中三のK君もそうだった。私のかわいいガールフレンド五歳になったSちゃんも、去年の夏、不幸にも交通事故で命を奪われたAちゃんもやはり誕生日を迎えた。私と一日違いで私の妻も誕生日を迎える。みんなまとめておめでとう、おめでとう。
さて私の誕生日は四日後。悪名高き「後期高齢者」二年目、七十六歳になる。先日なくなった偉大な作家井上ひさしさんと同年齢。日本が太平洋戦争に突入し、国のため、天皇のための民を育てる教育として「国民学校」に改変された、昭和十六年小学校一年生だった「国民学校の会」の同年齢だ。どんなにがんばっても二十年も生きられそうもない歳になった。
残念なことだが、子どものころの私には思い出に残るような誕生日はないといっていい。子どものころはもちろん、青春時代も含めて、誕生日を祝ってもらうことなどなかった。時代ということもあったろう、家がひどく貧しく、誕生日を祝うなどという習慣がなかったということもあったろう。とにかく記憶の中にまったくないのだ。
いつごろ書いたのか定かではないが、多分二十代の後半ころだろうと思う。私の書きなぐったノートの中にこんな詩がある。母親から聞いた私の誕生にまつわる話をもとにして書いた詩だ。

    誕生

おふくろの胎内で成長した僕は早く光が見たくって
ある日突然激しく生温かい壁に体当たりした
畑の草取りをしていたおふくろはその激しさに顔をゆがめて
引き抜いた草を握ったまま物置に飛び込んだ

産まれ出ようとするものと
産みだそうとするものの
苦痛にゆがんだたたかい
産婆の手にかからず僕は産声を上げた

七十六年が経つ。人生を振り返る年齢になったことは間違いない。心身ともに健康のつもりではいるが、それにしてももう先が見えてきた。
先に「子どものころはもちろん青春時代も含めて」誕生日を祝ってもらった記憶はないと書いた。だが、祝ってもらったというのではないが誕生日にまつわる鮮明な記憶がひとつだけある。それは二十歳の誕生日だ。「成人式」などというものではない。私の内に起こった大きな変化、決意といってもいい。二十歳の誕生日を迎えたとき、私はひとつの重大な決意をした。それは私の人生を「弱いものの立場、貧しいものの立場、労働者(勤労者)農民、漁民など、民衆の立場に立って、その人たちのために役に立つ人間として生きよう」ということだった。「若さ」ということもあったかもしれないが、とにかくそれから五十六年間、私はこの一筋の道を歩き続けてきた。そしてこれは私の心のなかにある、ひそかな誇りになっている。
不勉強で、たいした知識も力量もなかったから、何ほどのこともできなかったろう。他人に向かって声高に言えるほどのことは何一つない。
四月十九日。それが私の誕生日だ。私は二〇〇七年に書いた小冊子『私の少年期と青春の断面、そして家族のこと』のあとがきに、次のように書いた。
「サムエル・ウルマンの『青春』という詩の第一連にこんな詩句がある。
  青春とは人生のある時期ではなく/心の持ち方をいう。/バラの面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく/たくましい意思、豊かな想像力、燃える情熱を指す。/青春とは人生の深い泉の清新さをいう。」
この思いは今も変わらない、できることなら、この思いを貫いて残る人生を生きたいと思う。
七十六歳を迎える今、改めて心に刻んで私の誕生日祝いとしよう。

政治にひと言

普天間基地移設の先が見えてきた

 書けば長くなるから多くは書かない。鳩山連立政権の、普天間基地移設にかかわる結論が見えてきた。県内たらい回しと、一部を徳之島に移設しようというのがどうやら鳩山政権の目指す方向のようだ。今、沖縄でも本土でも徳之島でもこうした鳩山連立政権の行き着く先に、激しい怒りが湧き起こっている。四月後半、沖縄では全島ぐるみの普天間基地県内移設反対の集会があるという。十四日には沖縄に連帯して『基地撤去』の中央集会というのが日比谷公園で開かれた。5〇〇〇人を超える集会だったという。土筆通信1115号で、Oさんが「団塊世代の人たち」という作文を書いた中に「日本でデモが起こるなんて今では想像もつかないことだ。……今の学生は政治に興味も関心もない人がほとんどだ」と書いていたが、まだまだ不十分とはいえ、沖縄普天間基地移設を巡って大きな集会やデモが盛り上がり始めていることは確かだ。
 普天間は海兵隊の基地。海兵隊は『抑止力』として必要だという詭弁の上に政府もマスコミも立っているが海兵隊は決して『抑止力』ではない。アメリカさえ、沖縄の海兵隊は『世界的な役割を果たす戦力投射部隊』といい、『日本防衛の任務を持たない』と言明しているのだ。事実、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、最近のアフガン戦争などアメリカが引き起こす世界各地での戦争の、『殴りこみ』部隊としてその威力を誇ってきたではないか。
 基地撤去以外にないのだ。どこにたらい回ししようと反対運動は広がり、解決の道はない。(土筆通信の一部)
by tsukushi--juku | 2010-04-16 19:12